えびす神社、小山の突端から海側に繁った松の景観は見事で海に映えて美しい。
大谷松次郎がハワイへ行く前に、カムロの仲間と写した写真のようです。
東大の文学部美学科への進学を目指す決心を固めて、東大に合格するに至りました。
60年前の山火事(沖家室、魔山1ヶ月近く鎮火しなかった記憶)
往還道を200メートル走ったであろうか、橋を渡るとデンとした屋敷がみえてきた。
島の崖っぷち下は段々畠、その下は海に面して人家密集、狭い道路 人通りが絶えない。
私は岡城の家室では一番山の上の家(石丸家)で生まれ、父が当事本浦の角屋でやっていた軍手工場で育ちました。
ブレーカーを元に戻そうとしたがもどらない。過去に数度経験していたが、今度ばかりは思うようにならなかった。
その部落ごとに変化のある素晴らしい特色を持っておりますので、存在価値・保存価値が大きいものです。
周防大島の青木家は郷土史家なら知らないものはいない旧家ですね。
この記事は1980年(昭和55年)3月7日付け中国新聞に掲載された。
私事ですが、先日(6月19日)家室に帰り墓じまいをしてきました、新山住職には閉眼供養を懇ろに弔っていただきました。
新山玄雄さんや、懐かしい沖家室の皆様のご活動を写真で拝見出来まして、感謝申し上げます。
悲しい事ですが、今月の十日、ハワイ浄土宗別院の中野先生が亡くなりました。
ずいぶん昔、10年以上も前、かむろ復刻版(かむろ第一号1914年9月5日版)が届いた。
ホノルル浄土宗別院の写真が大谷マリー会長から届きました。(ミツイ・ウォーターさん撮影)
理学療法士としての専門性を活かし、在宅で安心して暮らしていただくための支援を柔軟に展開することができるようになりました。
せめてその特産品であるミカンにだけは、なんとしても再興の道をたどってもらいたいものだ。
慶長11年(1606年)に沖家室島に移住して再開拓した石﨑家の当主「初代勘左衛門」については、
私の曽祖母のハマサキ•センの出身地が家室西方村であることの可能性が高いと思っております。
実際のところ興居島・沖家室の石﨑一族は伊予河野氏の直臣というよりも、村上海賊に属する一団だったのではないでしょうか。
当時、家室西方村の下田に住んでいた私の祖父大濵清助が郵便局を開設して初代局長となり、村の名称を「白木村」と改めて、祖父は初代の村長を務め
友澤開基・惣右衛門徳昭は二代石﨑勘左衛門宗政の長男ですが、毛利家に仕える際に友澤に改姓しました。
それぞれの一番優れた名演奏のCD等々で紹介し、大濵の解説と教材を用いて、皆さんで聴いて楽しんでおります。
私は四代彦七は初代惣右衛門徳昭(〜1695、享年73)の晩年の子ではないかとの考えに至りました。
地域の活性化に積極的に関わってくれる「協力者(ヒト)」,人口減少、担い手不足を補う「テクノロジー(モノ)」、補助金に頼らない地域運営を実現するための「独自財源(カネ)」
そして1年後、船は出来上がり、フナダ(造船所)で船おろし(進水式)を迎えた。写真がそのときのもの。