用事があって、安下庄三ツ松に住む光田さんを訪ねた。かねて光田さんからは、付近に友沢屋敷があると聞いていた。友沢氏とは1606年、沖家室に居を構えた石崎家の流れ。元は伊予の河野家の家臣であったが1600年関ヶ原で河野氏が滅亡し、領有していた興居島を離れて沖家室に移り住んだ。 以後、石崎家2代目が毛利藩から士分に取り立てられ友沢と名乗った。とはいえ、毛利藩の財政が厳しく無給であった。 そのため、たまたま空いていた沖家室沖の大水無瀬島と日前沖の浮島を領地として遣わされた。
石崎家法要のとき、御当家がお泊りになり当主といっぱいやってたら「安下庄三ツ松にも土地がある」と聞いていたので気になっていた。そこに光田さんから、近くに友沢屋敷があると聞いてびっくりしたのである。
石崎家はたいした力の持ち主だったようだ。沖家室を開き、毛利から舟究役(ふねあらためやく)を仰せつかり御番所の代官をつとめた。また大島郡東部11カ村の庄屋もつとめた。 そこで、東和町誌を開いてみると詳しく載っていた。さすがは宮本常一先生である。友沢家に伝わる古文書を解析していた。宇賀島(浮島)と安下庄の開拓を藩に願い出ている。「安下庄は三ツ松にあった明戸池を埋め立てて水田にする」とある。それが写真のところであろう。
光田さんによると、家の前の川沿いの道はかつて往還道だったという。江戸時代からの街道筋である。 この道沿いに友沢屋敷があると言う。 そういえばこに近くに鍵本くんという同級生の家がありよく泊まった。 確か道の下は海だったように思うが埋め立てられたのであろうか。
往還道を200メートル走ったであろうか、橋を渡るとデンとした屋敷がみえてきた。 これだ。異様なオーラを放っているが、かなり傷んでいるとみえる。 光田さんによると廃屋となって久しいという。 とはいえ、大屋敷であり造りはいかにも財を成したであろうと思われる佇まいである。 雨が降り出したので急ぎ通り過ぎたが改めてその後の友沢氏を調べてみたい。
現在の所有者は不明。
松本昭司