青木松好,藤本茂文,藤原吉弘,井上巌,
来嶋要,中山章,西村一孝,
西村季芳,白銀輝男,八木正共
山田重利エッセー残り全部、英訳掲載です。 古谷義隆さんの翻訳です。
先月受けた大腸がん検診の便の潜血検査で、“潜血反応があり精密検査が必要です”という判定が下った。
山田重利のエッセーの古谷義隆さんの英訳が続々完成しています。準備ができ次第アップします。今回は上記3点です。
できれば自分史をまとめたいと一念発起して、少し書き始めようと試みています。
昔の馬関組の船頭や宿子連中は爺さんがやるのなら、庚申様が組合長ならと喜んで応援する事になったが、(英訳)
「どうしたら沖家室島が元の様に栄えますか?」もちろん、誰もこの答を持ち合わせていない、(英訳)
昨年、秋に日本旅行をしました。 沖家室島を訪問しました。 私の祖父、八木三男がカナダにくるまでの少年時代を過ごした所です。
天理大学文学部考古学・民俗学研究室では、2010年、2011年の2年にわたり、山口県大島郡周防大島町沖家室島を訪れ、フィールドワークを実施いたしました。
古谷長十郎は1886年7月20日、日本の山口県沖家室島に生まれました。彼はハナヨ(金井)と1914年に結婚し同年カナダに来ました。 私の父、八木三男、はやはり沖家室島出身で虎助とヨシの二男です。
昔の馬関組の船頭や宿子連中は爺さんがやるのなら、庚申様が組合長ならと喜んで応援する事になったが、
とにかく面白い。水曜日が終わると土曜日が、土曜日が過ぎると次の水曜日が待ち遠しい。
さて、もっと古い、その時点から、さらに約260年前に遡る(さかのぼ)中世、南北朝時代に家室合戦がありました。
この水無瀬島は飢饉のときは特別に役に立つ島だからなあ。土の下に成る芋も大根も土より上に出来る麦も黍(きび)もとても良く出来る。
このように沖家室の古い記録は島外に持ち出されたりして皆無に近いと言われています。
池上区民会館で三千人位入れるところの舞台の上で、東京都知事から表彰状を貰った時は、爺さん、婆さん、に見せたかった。
生きている「かむろ鯛」を料理に出すので新鮮なのは言うまでも無いが、「瀬付(せつき)のかむろ鯛」の方が格段に旨いと言う。
『山口県史 民俗編』より 天理大学教授 安井真奈美 博士の研究成果です。
要職をこなし[かむろ]を治め何処よりも発展向上させた偉人 自称“八人之侍”が次の方々です
中山会長から八木会長へ、バトンタッチされた結果、役員は「一世時代」から「二世時代」へ移りました。
昨年の会は、故大谷義貴会長のご遺志となった「ちひろさんコンサート」を広島かむろ会で開催しました。
或る年、流れ灌頂「ナガレカンチョウ」を送った後の百万遍の数珠を繰る仲間に入れて貰った。
沖家室を出身地とする人、愛着を持つ人が、過去そして現在結んでいる人と人、人と場所との繋がりや、再生産されている文化
、昭和初期から戦後にかけての洲崎と本浦の商店を示した地図も掲載しました。
島の面積は0.95平方キロで、城ケ島の0.99平方キロ、あるいはディズニーランドのディズニーシーを合わせた面積1.0平方キロとほぼ同じ大きさである。
山田重利さんと約10年前から以下の地点を、時には拓本を採りながら家室人先祖との関わり合いを調査してみました。
昭和19年戦時中に1回の東京かむろ会が18名の参加者で発会された
防予汽船のドラの音を聞きながら、かすみゆく緑の島をいでしより六十六年・・・・・
多くの伯父さん、叔母さん達が色々と面倒を見てくれて、天気の良い時は浜辺に「蚊帳」を吊って寝た時もあります。
「どうしたら沖家室島が元の様に栄えますか?」もちろん、誰もこの答を持ち合わせていない、