okikamuro island fan club, 沖家室島ファンクラブ|Kamuro party かむろ会

山田重利

山田重利

  東京かむろ会名誉会長


私のかむろNo8 「母ハナの思い出」

私のかむろNo7 「農道を作るようになった訳」

私のかむろNo6 「「戦後家室での重利」

私のかむろNo5 「武田鉄工所時代」

私のかむろNo4 「爺さんの思い出」

私のかむろNo3 「石欅」

私のかむろNo2 「孤独」

私のかむろNo1 「生い立ち」

「流れ灌頂」

東京から故郷の沖家室のお墓詣り

泊清寺蝋燭立て・燭台顛末記

エッセー

私のかむろNo4 「爺さんの思い出」

山田重利                                             掲載日2012/03/20

(山田重利さんは2011/10/2に逝去されました、享年96歳。遺されたエッセーを掲載しています。)


2011年沖家室須崎港

昭和六年(1931年)三月尋常高等小学校を卒業して、中山坂市叔父の舟で漁に行くようになった。 爺さんが一緒に行かず家にいる事があると、重利の帰りを待って食事をした。遅くなっても待っていたが、時には食べないで寝ていた。 食べて寝れば良いのにと言うと、重利が帰らなければと言って寝たとの事。 そんな事で婆さんも食べないで重利の帰りを待っていた。 爺さんがどうして重利が帰るまで、食事もせずに待ったのか、待ちきれない時は食事もせずに寝たのか。 無言の教育で口では言わず、態度で教えてくれたのか。 将来、山田家の頭領としての資格の一部としての教えか。 すべてに通じる我慢も辛抱も情も愛情も、無言で教えてくれたと思うと八十歳になった今も涙が出る。 爺さんから文句を言われたり、叱られた事はないが一度だけ愚痴を言った事がある。 重利が爺さんと喧嘩をして島を出る時にどうしても島をでるのかお前に死水を取って貰おうと、いままで一生懸命に育てたのにどうしても出て行くのか困った事になった、と愚痴をこぼしたが、いままでにこの一度だけだ。 怒った事は一度ある。昭和四年か五年だと思う。 沖家室漁業協同販売所というのが出来たとき、爺さんが俺が漁業組合長になって、漁業のために最後の死花を咲かすのだ。 重利お前も協力してくれ、お前が一番頼りなんだからと言って組合長になる事を皆に話した。  昔の馬関組の船頭や宿子連中は爺さんがやるのなら、庚申様が組合長ならと喜んで応援する事になったが、四人の子供は爺さんが漁業組合長になる事に反対で、ある日家に集まって会議となった。 誰が言いだしたか、爺さんあんたは漁業組合長になるとか、世間で噂しているが本当かと言った。 爺さんは、うん俺は漁業組合長をやるつもりだと言うと、誰かが、爺さんあんたのように字も読めん字も書けない者が組合長になって、何になると言うと、爺さんは、字が読めなくても又書けなくても、今までも組合長はやってきた。  字が書けなければ書記を置く。  内閣総理大臣には書記官がいる。 漁業組合長に書記を置いて悪い規則はないから書記を置くと言ったら、叔父達はその書記に成る者がいないよ、爺さんは、重利お前がなるなあ。 重利も、ああ何でもやるよと言うと叔父の一人が重利に何がわかるか、爺さんは辞引きをひいたらなんでもわかるんだろうと重利に言う。 ああ辞引きをひいたらなんでもわかる。 叔父さん達が十人位で束になってきても負けないよ。 叔父達は、重利お前は黙っていろと言う。 重利は叔父達にお前は黙っていろと言われる筋がない。 お前達に飯の一回も頭をさげて、飯を食べさして貰った覚えはない。 食べに来てくれというから食べに行ってやったんだ。 爺さんが黙れと言うなら黙るが、お前らから言われても黙らないよ。 叔父達も何とか、かんとか言っても、爺さん重利にはかなわん。 種々と相談をしたり話をしたが、どうしても爺さんが漁業組合長をやる気持ちを変えそうにない。 重利は爺さんの言いなりだし、どうしようもない。 どうして爺さんが漁業組合長をやったら悪いのか、その原因は何処にあるのか。 その事は現在の漁業組合長や一部の漁師でない人が、職が無くなり困るからか。 爺さんが組合長になったら月給を貰っているのみ出張手当まで取るような事はしない。 組合の金は必要以外は使わない。 漁業の事は漁師にやらせ、陸の人に漁師の苦労は何がわかる。 漁業組合は漁師の組合だ。だから漁師が漁業組合長をやるべきだ。 これが爺さん松蔵が口癖のように言う言葉だった。 爺さんも七十歳を過ぎて、小学生の重利を頼りで、唯一人が味方で、子供達は一人も味方のいない悔しさは残念だっただろう。 叔父達も、ああ言えばこう言うとまともに話したのではかなわぬ。 とうとう苦し紛れに誰が言ったか忘れたが、爺さんが魚業組合長になるのなら親子の縁を切ると言い出した。 爺さんは、大きな声で「ようし親子の縁を切ってやる。 今まで七十幾つになるまで親から子に向かって、親子の縁を切ると言う事は聞いた事はあるが、子から親の縁を切ると言うのは初めてだ。 ようし親子の縁を切ってやるから、さっさと出て行け」と怒って大きな声を出して、そのかわりお前達にはワラ一本もやらんと言うと叔父達は口の中でぶつぶつと何かわからん事を言いながら家を出て行った。 後に残った爺さんは、重利よ皆は財産が欲しいだけだが、この財産は漁師の皆のお蔭で出来たのだ。 此度は漁師の皆のために投げ出す積りだから、重利お前にもなんにもやれないかもしれんが、俺の死花を咲かす手伝いをしてくれ、身内の中でお前だけが頼りだと言う。重利もいいよ、爺さんの財産は当てにはしていないよ。  爺さんは山口県庁に行っても駄目だろうから重利お前と二人で東京の福田虎助の家を宿にして、農林省へお百度を踏もうや。 爺さんは俺がしゃべるから、重利お前が書けという事をきめた。 その段取りをしていたら県の水産課長が来て話をするとの事で野村旅館に来るようにと連絡があり爺さんが出かけた。 野村で水産課長と話をしたらしいが家に帰って重利よ俺はもう漁業組合の事には口を出さんよと言った言葉の無念そうな声は、今まで張り切っていただけ余計に悔しかったのだろう。 県の水産課長も惜しいなあ、もう一人味方がいれば日本一の漁業組合が沖家室には出来るだろうが、一人ではなあと、帰る前に話して帰ったとの事。  爺さんに味方が小学生の重利一人では、子供達は一人も味方にならなかったが、やはり松蔵の後に続く人材が、子供のなかにはいなくて孫の重利だけを頼りにして、早く大きくなれと期待していた。 叔父や叔母達にも俺の帯より上に上がってくるのは、重利だけだと誰にも言っていた。 重利は帯ではなく頭の上も飛び越してやるよと言ったものだ。 他の者が言うのなら取り上げないが重利が言うと、早く大きくなってくれと言っていた。  沖家室を飛び出した事は振り返ってみると、爺さんの期待と夢を打ち砕く事に成って申し訳なく思うが、あの時はあの時で一所懸命に考えての事だったが、島を出た事は良かったと思う。

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