平成十七年(2005年)十月五日
木村新之助(記録)
八十八夜が来た。そろそろ「イカナゴ」が見える頃だ。網の手入れも済んでいる。 山田屋「山田彦吉」が、おーい山田さん(山田重利)イカナゴが刈山城の沖に見えたと、松平兄「古谷松平」が言っている。 明日は一番やって見るか?
1945年、二十年五月頃の事。
朝早く山田屋が、やって来た。 古谷(松平)、亘才助、古梅(古谷梅助)、山田と四人が、朝まじめ(日の出る前)より網を砂浜より、沖へ漕ぎだして沖回し網の片方を離れた所の砂浜に上げる。 網の片方を浜の一方の所で網の他方を浜のもう一方の両方で、引き上げる。 網を引っ張る者は台湾、朝鮮、満州、からの引揚者で、それぞれ、顔馴染みばかりが、集まって、一生懸命に成ってひくが。手と力が揃わぬので、網が破れる。 我々は気が気ではない。 網は古いし、資材は手に入らない。
終わったら毎日網の手入れで、苦労しているので、身を切られる思いだ。 皆一生懸命なのでと初めの頃は、一人で引っ張っても、網が破れるだけだから、声と手を併せて、引っ張るのだ、と言っても素人の悲しさ、思うように出来ない。 皆一生懸命なのだと心と気持ちは判って居ても、つい大きな声で馬鹿野郎と怒鳴る、心の中と口は違うのだが? 網が破れたら皆が困る。
我々はイカナゴに生活を掛けていないが、網を引張って居る人達は、その日、その日の、おかずに成る。 網が破れる事は即皆の、生活を脅かす事になる。 戦争で長い間、海外で苦労して懐かしい故郷に引揚げて来た。 お互いに助け合って、何とか生きて行かねば、どうしても生きるのだ、島は七百人位居た人口が戦後は、東京をはじめ大阪、広島の原爆など都会での焼け出された人に、満州、台湾、朝鮮、復員軍人で、島の人口は三千七、八百人に膨れ上がった。
もう寝る所もない、観音様も、お寺も、八幡様も、人の入れる所へは、鍋と釜と、火輪を持って住んだ。 食べ物の少ない島は米も出来ない、麦と、さつま芋が出来るだけだ。 そんな時の、イカナゴは、貴重な蛋白資源だと思うが、網の資材は手に入らない。 網が破れると、皆の蛋白資源も無くなると思うと、つい心にもない、この馬鹿野郎お前なんか、辞めてしまえと大きな声で怒鳴っている。 後で悪い事を言ったと、心で謝っては居るが。 又その時になると、怒鳴っている。 お互いの心が通じ合っていたから。喧嘩にもならず、すんだ。 今思えば懐かしい思い出となった。
島へは海外から、どんどん引揚げてくる。 今日は誰と誰が帰る。 明日は誰が帰る。 今、門司まで帰っている。 毎日そんな話がある。 山田でも台湾から何人帰るか判らん皆無事で帰って呉れると良いがと、ハル婆さんと話した。 米は一日に盃(サカズキ)に一人一杯のお米を四人分を、一生懸命で貯めて、皆が台湾から帰ったら。 一度でも良いから、お祝いにお粥ででも、皆で揃って食べられたらと、辛抱して皆の帰りを待った。
畑常の居た家も中村の奥の家も角忠の向こうの家も井戸の上の家もあけてもらい準備をした。 やがて台湾から引揚げて帰って来た、十八人が一度に帰って来た。 一生懸命に貯めたお米も、お粥を一度炊くのがやっとだった。 それぞれの家に人と布団を手配して、茶碗を分けるようになったが、思うようにならん。 茶碗も皿もマッチさえも配給だった。 台湾では米も食べ物も、日本国内よりは不自由がなかったのか。 一生懸命に尽くした積りでも、余り喜んでくれない。 逆に俺たちは台湾で苦労してきたのだと云う意識が強く感じられて、むしろ日本国内に居た者はこれ位のことはしてくれて当然と思って居る様におもえた。 茶碗も、もっとあった筈とか何があったとか? 自分だけの事しか考えないのかと、情けなく成った。
戦争に行って負傷し、一時は両眼が盲に成り足も思うように歩けなくなって、除隊となり、山口県大島郡東和町沖家室に帰る。 これからどうして生きたら良いか。 夜もろくに眠れない。 そのころ叔父の一人が、この大東亜戦争の最中を良くも毎日ぶらぶら出来るもんだ。 お前、重利、が金を持っていて食う事に困らない事は知って居るが、大の男が毎日ぶらぶら遊んで居ては世間の手前が悪い、少しは働けと云う。
俺も、一生懸命に何か働こうと、毎日毎晩夜も寝ないで考えて居るが指が曲がらなければ、按摩にもなれず、さりとて漁師には眼が悪くては山も見えず。 その上釣り道具が縺れたら、糸が解けない、解けた頃にはもう漁の釣れる時は終わりだと思う。 大工にも、目が悪くては、洋服屋にも、左官屋は高い所に上がっては、危ないが、何に、成ったら良いか、叔父さん教えて呉れ。 やって見るから? 叔父も考えていたが、そうだなあと、あの戦闘中に戦死した戦友がいまはの際に、故国の事を頼むと言って戦死して行った。 よおし後は引受けたと約束したが、敗戦に成って駄目になったと、今更亡くなった戦友に云う事は出来ない。 晴れて靖国神社にお参りする事の出来るように成るまで頑張って、頑張るしかない。 又、東京に出る。元の勤務先、向井製作所に、帰還した報告と今後の事をお願いする。暫く働いたが、眼が悪いが傷病軍人だから仕方なく使って遣るのだと思えた。これでは困る、情けを掛けられて働く事はいやだ。 何れは独立して、会社を作る積りだ。爺さんが、口癖のように、船に乗れば船頭、大工になれば棟梁になれと言って居た。 この際これを機会に独立しようと、吉田徳雄さんに相談した。友達の所に機械が空いているから話をしてみてあげると、話がまとまり借りる事が出来た。一生懸命に働いた。