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山田重利

山田重利

  東京かむろ会名誉会長


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私のかむろNo7 「農道を作るようになった訳」

私のかむろNo6 「「戦後家室での重利」

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私のかむろNo4 「爺さんの思い出」

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東京から故郷の沖家室のお墓詣り

泊清寺蝋燭立て・燭台顛末記

エッセー

泊清寺蝋燭立て・燭台顛末記

山田重利                                             投稿日2011/03/27


 1994年:平成六年八月十六日、夏の事泊清寺の本堂に偶然、山田重利が一人に成って窓と言う窓は開けっ放しであり風が強く吹いていた。 ふと見ると精霊様の中に有るお灯明の炎が風で横になびいている。 もし、この燭台「ローソク立て」が風か地震で倒れたら大火事となり、お寺の本堂も阿弥陀様も皆、灰に成るだろう、これは大変だと身震いがした。 試しに燭台を左手で受けて右手で触ったら、少しの力で倒れる事が判った。
早速、若奥さんにいうと若奥さんはいつもの習慣で気が付かなかったと、灯を消した。 これは、お先祖様が重利に灯「トモシビ」は絶やさずに、ローソク立が倒れ無い方法を考える様にとの、お知らせを示されたのに違いない。  九月に山口市で戦友会があり沖家室に立ち寄ったので西村友一さんに燭台の事を話す。山田は略図で、こんな形の物ではどうだろうか、説明をしたが西村さんは、自分には図面だけでは、判らないが見本が有れば尚良く判るのではあるまいかといわれた。  平成六年十一月三日、東和町の「ふれあい」祭りに帰った時、沖家室に立ち寄る。 その時、ネンドを持って帰り、住職の新山玄雄、「寺総代」西村友一、柳原 正、と山田 重利、四人でローソク立ての協議をする。 山田はネンドで、ローソク立ての下に重い金具を締め付ける方法を説明した。  尚、皆さんでより良い方法を考えて下る様にお願いしますと言うて東京に帰る。
暮れの十二月二日に星野哲郎先生の奥さんの御通夜があり、泊清寺の新山さんが見えたのでローソク立ての話をしたら、設計上、風では倒れないようになって居る筈と言うから山田 重利はすかさず、風で倒れなくとも地震と言う事が有りますからね、と言った。 翌年平成七年「1995年」一月十七日五時四十六分朝、何気なくテレビをかけたら、画面は大火事だ、それが阪神の大震災だった。 とたんに、泊清寺のローソク立の事が気になった。 お先祖が山田重利に、燭台が倒れないように注意をしたのに、何も手を尽くさないで燭台が倒れ、お寺が火事で焼けたら、お先祖様に申し訳が出来ない。 何とかしないと、どうしたら良いか、とうとう眠れ無くなる。 話しに聞けば、鱶地蔵さんのローソク立が倒れて火事になり、屋根を葺き替えたとか。
平成七年「一九九五年」のお盆に沖家室に帰り燭台の話をするがなにも出来ていない。 だがお先祖様は重利なにを肝っ玉の小さい事を云っているのだ、お前が作らねば誰が作る、感情的に成るな、作る事を考えろと、頭にお先祖様の声がする。 そうだ作る事が先決だと、思い直して若奥さんに紙と鉛筆と物差しを貸して貰う。 何時も人が見る物だから体裁を美しく、且つ頑丈で風や地震に耐えなくては困る。 この事を大谷岩雄さんに話したら、お寺でそんな好き勝手を言う事の成るのは山田だけだ。
東京に帰ってから、材質をステンレスでなら錆びる事は無いが、加工が大変だ、鉄で作りメッキをするのも良いと思ったが、将来何年かたってメッキが剥げた時、なんだ中身は鉄だったと、言われると思う、少し材料を惜しんだ為に笑われるのは困る。 それで真鍮で作る事に決定。 真鍮は緑青が出るのを、クローム、メッキをしてそれを防ぎ体裁も良くなった。 この燭台は何百年も仏様で毎日使う物だから作業も熱心に心を込めて作業をした。  泊清寺の安全を願いながらおわる。
山田重利
印刷2000年7月8日10時3分

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