okikamuro island fan club, 沖家室島ファンクラブ|Kamuro party かむろ会

山田重利

山田重利

  東京かむろ会名誉会長


私のかむろNo8 「母ハナの思い出」

私のかむろNo7 「農道を作るようになった訳」

私のかむろNo6 「「戦後家室での重利」

私のかむろNo5 「武田鉄工所時代」

私のかむろNo4 「爺さんの思い出」

私のかむろNo3 「石欅」

私のかむろNo2 「孤独」

私のかむろNo1 「生い立ち」

「流れ灌頂」

東京から故郷の沖家室のお墓詣り

泊清寺蝋燭立て・燭台顛末記

エッセー

私のかむろNo2 「孤独」

山田重利                                             掲載日2011/11/06

(山田重利さんは2011/10/2に逝去されました、享年96歳。遺されたエッセーを掲載しています。)


 孤独に慣れたとは言え、他人から父無し子と言われる事は平気な顔をしていても、叔父や叔母から、お前の様な親も兄弟も無い者がと、言われた時は、悔しさを通り越して、目の前が真っ暗らくなる。なんで身内の者から迄、親無しと言われなければ、ならないのか?これを、誰に持って行けば助けて呉れるか、爺さんに言えば助けては呉れるが、どんなにか悲しませる事になる。小さい「重利にもよく分かった」やはり一人で耐えて耐えて行くしかない。 それでも爺さんの膝の上で良く遊んだ。爺さんが口癖によく「俺の帯から上にあがる事のなるのは重利だけだろう」と言うから、重利は「肩の上に登り帯よりも肩よりも頭の上を飛び越えるんだ。」と言うと、爺さんは皆の前で目を細めてニコニコとして喜んだ。 爺さんの膝にあがる事の出来たのは大勢いる孫のなかで重利だけだ。 田坂甚作さん柳沢伊三郎さん、二人の言うには、重利が生まれた時に祖父さんがこの子は将来俺の帯から上にあがるようになるだろうと、言ったが何処を見て言ったのか、教えて貰って置けば良かったと笑って話した。  爺さんは「重利が子供の頃から欲しい物は何でも買ってくれた」小学校で辞書が欲しいと言うと、どうしても欲しいのか、どうしても欲しいと言うと、其れならば、買えと言う。 その時は必ず三冊買い、従兄弟の金重と虎太郎にも買う。服が欲しいと言えば服も三着買い、三人同じ物を与える。 物を作ったり遣る事は差別をしなかった。 重利がある時、独楽が欲しいといったら、観音様の所にある石欅の枝を伐って、一生懸命に作って居た姿を思い出して耐える事ができた。どんなに苦しい時も、此れ位の苦しみでへこたれてたまるか、誰も助けて呉れる者は無いのだ、此れから先にまだまだ苦しいことが、有る筈だ、これ位はまだ苦しいと言わないと思い、馬歳を重ねてきたので、苦しかった事が判らなくて過ぎた。  爺さんは、自分自身の心に負けない様に言う度に教えて呉れた。 修学旅行は五年生以上が行けたが三年生でも父兄が付添えば行けた。爺さんに修学旅行に行きたいと言うと、友太郎叔父に重利に付き添って修学旅行に行けと言って松山市に旅行に行った。  途中で馬が居た。島では牛も馬もいない、馬の動きを見ていたら飽きない、叔父が、誰も居なくなった、もう行こうと言っても重利は動かない。何処に行っても、納得行くまで動かないので、叔父も困った。 旅行から帰って、爺さん、重利をもう旅行には連れて行かん、困らされた、もうコリゴリだ。そっか、仕方がない、四年生の旅行は中山坂一お前が重利の付き添いで行け、友太郎叔父が言う、重利に付いて行ったら、ひどいめにあうぞ、俺は弱らされた、とこぼす。 爺さんに、連れてゆけと言われては、中山も断る事は出来ない、重利は我が儘で言いだしたらどうしてもそれを通す。  それが又爺さんは気に入る、重利がやることはなんとか良い方へとこぢつける。

大水無瀬島

 学校を卒業して、久し振りに爺さんと、舟に乗り港をでる松原の峰松が少し鳴っている。 爺さん(松蔵)が朝北夜南「あさきたよるみなみ」だ今日は好い天気になるぞと、なんだか機嫌が良い、婆さんも早くから弁当を作って呉れた。  胴の間(船頭の座る場所)どうのま、を見ると釣り道具ではなくて、鎌と鉈がある。 どうして、釣り道具が無いのかと、爺さんに聞く、爺さんは「今日は魚を釣りに行くのではない、重利に水無瀬の畑と土地の境界を教えてやるつもりだ。」 そう言いながら、おもてに行き矢帆(やほといってちいさい帆)を巻き上げた。 北風を静かにうけて、舟は一路、水無瀬島に進む、右に千貝の灯台が見える、左の向こうに片山、が見え、左斜め前方には四国の山々が綺麗に見える。 爺さんが、今日は帰りは(南風)まじになるから、矢帆をあげて楽に帰れるよと言う。 他の舟は、もう皆漁場にて漁をしているが、爺さんと重利は北浦の浜に舟を付ける。 北浦からの山道は思うように登れないので、鎌と鉈で道を切り開いて、頂上に登る。 山の上から沖の海の方は風も凪いで、瀬戸内海が海では無くて鏡のように沖家室の島も地方の山も海に写って、一幅の絵のように美しい、四国の山も青島も、遠くに佐田の岬が望める、春の瀬戸内海は特に美しい。 海に見とれて居ると、爺さんが重利よく見ておけ、北浦にも四枚棚がある、すくび(スクビ)地名、に有る棚は全部、家のだ、海岸の砂浜と舟を上げる場所、家のだ、明神様の横の道の海岸から山に松の木が三段ある所まで家のだ、家は十二軒あるが、全部が家のだ良く見て置けよ。  それから松の木は周りの草が松の木より高くなったら松の木は枯れるのだ、気をつけて草を刈れ、草より大きくなったら、これからは大丈夫だと教えてくれた。 昼になり、弁当を食べながら、この水無瀬島は飢饉のときは特別に役に立つ島だからなあ。土の下に成る芋も大根も土より上に出来る麦も黍(きび)もとても良く出来る。冬でも沖家室より着る物が一枚違う程暖かいのだと話す。家の周りと向こうの畑を見せて置きたいが、又来ることにする。何だかお腹の調子が悪い今日は帰ろうやと言う。 北浦の道は登る時よりは楽だ、道を作って登った所だから、舟に乗ってから、爺さんは胴の間で寝ているがなんだかとても腹が痛そうだ。重利は沖家室島に向かって、一生懸命に櫓を漕いだ。爺さんは時折り楽な時に頭をあげて、表(おもて)舟の舳先のこと、を沖家室の方に向かないで、片山島の方へ向けて漕いで行けと指示しては伏せる。 大分、沖家室が近づいた、爺さんが頭をあげて、もうこれからは洲崎の港にむけて行けと指示する。  重利は夢中で櫓を漕いだ一分でも早く帰らなければと思って、やっと港に着いた。 やれやれ、と思ったら、爺さんが頭を上げて、人間は最後が大切だ。未だ舟は着いていないと、声をかけられた。はっとして気を取り直して、錨を下して、舟を回して浜に付けた。もうそれからは一生懸命に爺さんを助けて、家に急いだ。  爺さんも少し落ち着いてから、今回は重利が良くやった、お前の父は粘り強かったがお前もお父さんに、似て頑張り強いと褒めた。 玄界灘で時化にあった時、石丸午助の舟に四人が乗り組んでいた。交代で櫓を漕いで水を替えていたが、一人が倒れ次次に倒れて水を換える者もなく、水浸しの舟を、父(甚吉)一人で九州の若松港に漕いで帰った。漁期が終わって島に帰ってから皆そろって家に来て、甚吉さんのおかげで助かったとお礼に来たとの事。  重利もやっぱり親父の血を受け継いでいるんだ。  中山の舟で漁から帰ると、爺さんは食事をしないで重利の帰りを待っていて今日はどこへ行ったか、そこでは何が獲れたかと、あれこれ聞く、それがとても楽しみのようだ。 遅く帰ると食事もしないで寝ている。食事をしたらと、言うと話はするが食事はしないで寝る。重利が帰るまでは、婆さんが食事をしたらと幾ら言っても食事をしないで寝る。 もうその頃から、重利を当主として認めさせようと思ったのだろう。 沖家室島を飛び出すまでそれは続いた。 島を出ることは次に書く。 印刷1999年10月27日15時19分

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