沖家室を出身地とする人、愛着を持つ人が、過去そして現在結んでいる人と人、人と場所との繋がりや、再生産されている文化は、現在のグローバル化の中での日本人の生き方を模索するうえで、大変重要な意味を持っていると思います。
歴史的に沖家室が釣漁の島であり、人々の移動の拠点であったことは知られています。そのネットワークは、例えば対馬、済州島、台湾、ハワイ、カナダ、ブラジル等々に広がっています。もちろん国境を超える移動は漁業で生活をしていた人々の日々の営みにすぎないのかもしれませんが、しかし、少し見方を変えると、それは、グローバル化を背景とした、人と人との境界を越える繋がり=トランスナショナリズムの展開=とも言うことができ、国家の枠に囚われた考え方や目線への反省を我々に迫る営みとして見ることが可能と思います。
「トランスナショナリズム」とは、送出地域と受入地域の間での国境を超える人々の移動が積み重なることによって、距離の長さや境界があることにもかかわらず、またそうした境界内での様々な法律や規制にもかかわらず、送出地域と受入地域との間に、そのどちらでもあり/そのどちらでもないような繋がりの世界が作られていく状態を指す社会学や文化人類学等々の用語・概念です。
重要なのは、その世界では、実際に移動する本人だけではなく、その場を一歩も離れない人々にあっても、送られてくるお金や情報等の仕送り(レミッタンス)、遠隔地家族関係のシステム(グローバル・ペアレントフッド)や遠隔地介護のシステム(グローバル・ケア・システム)―システムとは言っても、日々の気遣いやコミュニケーションや相互扶助といった程度のものです―、場所を離れて、場所への愛着を持つ人同士の絆と意識(ディアスポラ・コンシャスネス)の形成によって、まさに居ながらにして越境の視線と意識が自然に作られていくことだと言われます。泊清寺ご住職新山玄雄氏が復刻された『かむろ』にはこうした実践が歴史的に頻繁に行われてきたことが記事の随所に見られます。
私は、本来、都市社会学を専攻しており、日本社会に生きる外国人居住者/エスニシティのコミュニティ形成の研究をしてきましたが、昨年から日本人の越境精神を研究したくて、周防大島、沖家室にお邪魔し、「東京かむろ会」「関西かむろ会」の例会にも出席させていただきました。勝手な思い込みかもしれませんが、私は、グラスルーツなトランスナショナリズムが、過去のものだけではなく、現在の「かむろ会」の皆様の繋がりのなかに、自然に埋め込まれていると感じています。記憶としてのトランスナショナルな繋がりはどう生きているのか、出身地へのレミッタンスはどのような形で行われているのか、遠隔地介護のシステムは存在するのか、出身地へのディアスポラ・コンシャスネスはどうか、こうしたことが日常的にどのように展開しているのか、過去と照らし合わせて学ばせていただきたいと考えています。
(専修大学人間科学部教授)