貞享3年(1686年)に阿波国堂ノ浦から一本釣漁業が伝わったこと、
東和町誌には「沖家室から外入に移住した友澤与惣兵衛という伊予松山藩の御手大工」のことが記載されています。
このように、二代青木宗悦は沖家室友澤家に血を戻し、さらに野口源助家を介して伊助と私たち子孫にまで血を伝えたと考えられる「沖家室友澤家のキーパーソン」であることがわかりました。
沖家室で生まれた遠い先祖が京都に来て医学・薬学を学んでいたことは、京都で医学・薬学教育に携わっている私にとっては驚きの発見でした。
沖家室友澤家の八代彦七の妻・モトの実家である安下庄の医師・青木宗悦家に関する資料から、石﨑・友澤家と青木家が何代にも渡って姻戚関係を結んでいたことがわかりました。
大島大橋の突然の被災で、飲料水の供給も不自由となっておられる大島在住の皆様に心からお見舞いを申し上げます。
先日の24日に大量の飲料水やカップ麺、パン、レトルト食品などを届けてくれた広島市の山田政仁さん。今日はまた大量の支援の品々を持ってこられました。
モトの父の宗悦は「三代宗悦」であり、その弟である玄棟の息子が江戸後期の蘭方医として有名な青木周弼・研蔵の兄弟です。
7月28日にハワイ日系アメリカ人についてのNHKドキュメンタリー番組(新日本風土記)の日本語版を説明する会を開催しました。
昭和29年に、中学校をそろって卒業した121名は、今年度中に全員が80歳になる。
デジタルカメラのパノラマ機能でデジタル写真に収めることができました。
楢柴神父の突然の死はショックでした。彼はハワイかむろ会の再生に欠かせない非常に重要な働きをしてくれました。
友澤家で初めて沖家室の庄屋を務めたのは八代彦七で、天保2年(1831年)のことでした。
自分の家系図を登録してかむろ会全員の家系図データベースを作りましょう。
明治11年(1878年)頃に沖家室の近海魚場の漁業権を巡る争いがあったようです。
私の曽祖父・友澤伊助は明治6年、外入村の野口平八の次男として生を受けました。
大島大橋が架かる前、終戦後は「柳井港」から「防予汽船」の外浦周りで「安下庄」「外入」など数か所寄港して沖家室の沖に着き、
有限会社空撮ジャパンによる沖家室島の空撮映像です。この高度からの撮影はパラグライダーならではのものです。
NHK BSプレミアム 「新日本紀行」 4月6日と13日、午後9時から10時です。見てください。
明治34年の防長紳士録のうち、大島郡関係者の氏名がネットで公開されているのを知りました。
昭和18年(1943年)9月「陸軍少年飛行兵」の2次試験を受けるため、当時住んでいた北鮮の平壌から父に連れられて内地に来ました。父母の郷里沖家室に立ち寄りました。
「友澤姓のふるさと・沖家室」 そこで今回は沖家室にルーツを持つと思われる、記録に残る友澤姓の人物について紹介させていただきます。
もう10年くらい前になるだろうか、わが家に初めてゴキブリが1匹現れた。
大谷松治郎氏は、祖父(大谷千一)の兄弟で、ハワイのおじさんとして親戚中の尊敬を集めておりました。
「沖家室友澤家の十代目・伊助」 今回は私の曽祖父・伊助のお話です。伊助の実父・野口平八は外入村の住人でした。
「沖家室友澤家の九代目・二宮九八」 二宮家は毛利の殿様の御落胤の家系との言い伝えがあり、それで戒名も唯一院殿号である
「沖家室友澤家の当主・彦七」 文政5年(1822年)に代々庄屋を務めてきた石﨑家が友澤家と庄屋を交代したことが記載されています。
長男は四郎左衛門重昭と言い、元和元年(1681年)に浮島を開拓した記録が「浮島開闢伝記」(石﨑権一文書)に残っているようです(宮本常一著・瀬戸内海の研究)。
友澤開基・惣右衛門徳昭は、沖家室二代庄屋・石崎勘左衛門宗政の長男であり、最初は惣兵衛と言いました。
昨年から再出発したハワイかむろ会に日本のかむろ会代表として妻と出席した。
私の曾祖父、青木菊松は官約移民で1891年5月29日に蒸気船「山城丸」に乗船しハワイに来ました。
しかし、自分を育んでくれた環境、つまりふる里そのものには特にお礼らしいことはしてこなかった。
「音楽はよくわかりませんけど、聴くのは好きです」と言う人によく出会います。
面白いです。四境の役のビデオがyoutubeに公開されました。大島口の戦いは島民の決起が勝利に大きく寄与しました。
これらの雑草たちは、..ひょっとすると、身をもって私に帰省の口実を作ってくれたのかもしれない。
母 八木アキヨは天寿を全うし、2016年5月26日97歳の生涯を閉じました。
連休は久し振りに【かむろ】で過ごしました、帰るたびに淋しさを感じます。