昭和18年(1943年)9月「陸軍少年飛行兵」の2次試験を受けるため、当時住んでいた北鮮の平壌から父に連れられて内地に来ました。集合場所の滋賀県大津の「陸軍少年飛行兵学校」に行く途中、父母の郷里沖家室に立ち寄りました。
私にとって沖家室は9年振りで小学校1,2年の時、約1年間通って以来でした。 (昼食は、昼休みの時間に家に食べに帰っていたと記憶しています)
親類の方々にお宮で「祈願祭」、床屋の伯父の家で「壮行会」をして貰い、八木の叔母に下田のお宮に祈願しに連れて行ってもらいました。
出発の時には、洲鼻の浜で小学校のブラスバンドや大勢の人に見送って貰らいました。
昭和18年10月~昭和20年10月末に復員するまでの、2年間陸軍少年飛行兵(通信)で心身共に鍛えられた「頑張」の精神は、戦後の人生で大いに役に立ったと思います。
朝鮮で育った私には、沖家室に知人が少なかったのですが、昭和21年1月三菱化成大竹工場に就職、多くの沖家室出身の方と出会い、寄宿舎では沖家室出身の先輩数人の方と同室になり親しくして頂きました。
戦後、大竹、東京、所沢住み沖家室には、お盆、正月か法事の時にしか帰郷しませんでしたが、沖家室に帰ると懐かしさで心が癒されました。
ここ数年身体が衰え帰郷出来なくなり残念です。
今年90才になりますが、観音堂の上にある墓地から見える沖家室大橋、大島本島の素晴らしい景色の中で眠るのが夢です。
「かむろ」は、私の「ふるさと」です。
1944/5陸軍航空通信学校菊池教育隊時代
大谷 昭生