沖家室友澤家の当主は四代目、五代目、六代目、八代目が「彦七」を襲名しています。この4人は命日からそれぞれ親子関係にあると考えてよく、夫妻の墓石が観音堂墓地にあります。七代目は弥三郎と言いますが、若くして亡くなったようで、六代・彦七の長男、八代・彦七の兄ではないかと思われます。
私の祖父・政二の遺品の中に、泊清寺再建記という書物がありました。これは泊清寺二十世・鈴誉晃雄住職の時代、昭和41年5月に林端東(弥太郎)氏が執筆、昭和49年10月に印刷され、檀家一同に配布されたものと思われます。この書物は文化13年(1816年)4月から文政4年(1821年)11月にかけて行われた泊清寺本堂の再建に関する記述で、林氏が泊清寺に残されている古文書を丹念に調べ執筆されたもののようです。
当時の寄附帳に関する記述に、高額寄付者として「酒屋の一貫目(後代の友沢彦七)」とあります。また本堂東側鴨居上の瓦寄付者小額に「スサキ酒屋」と記載されていること、さらに工事の世話人「地突き世話係兼振舞役」のひとりとして「酒屋彦七」との記載があることが記されています。これは当時沖家室友澤家が洲崎で酒屋を生業としていたことを示しています。
そしてこの本堂改修工事の費用を巡る問題が、竣工後に責任問題に発展したようです。文政5年(1822年)に代々庄屋を務めてきた石﨑家が友澤家と庄屋を交代したことが記載されています。この庄屋に就任したのは六代・彦七と考えられます。
六代・彦七が亡くなったのは天保3年(1832年)であり、その際に泊清寺十一世安誉上人(文久2年=1862年遷化)が沖家室友澤家の過去帳を整理して作成されたと考えられます。初代・惣右衛門徳昭(大幸院)が院号を追贈されたのも、六代・彦七が庄屋に就任したことによるのではないか、また四代・彦七母(實相院)に関しても院号は追贈されたものではないかと、私は考えています。
東和町誌によると、天保の大飢饉に際して藩が小松の塩田開発を推し進めるために出資金を募ったらしく、応募者の中に「沖家室庄屋 友澤彦七」とあります。天保の大飢饉は天保4年〜7年とされますので、この彦七は八代目のことです。妻はモトと言い、その父・青木宗悦は天保年間に安下庄の医師であったことが東和町誌に記載されています。
観音堂墓地の最上段にある友澤家墓地。歴代の彦七夫妻が眠る。