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ルーツ研究

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勝山 真人

京都市


沖家室島はルーツ

沖家室友澤家につきまして(第五弾)

沖家室友澤家の十代目・伊助

勝山 真人 2017年8月14日 投稿

今回は私の曽祖父・伊助のお話です。

 

 八代・彦七が明治6年に亡くなり、一旦九八が九代目として家督相続したものの、九八・忠作親子が明治11年に二宮家に転出したため、友澤家には跡取りがいなくなりました。当主が不在となり、八代・彦七の妻・モトが家を守っていたようです。明治13年にモトは亡くなりますが、その命日に野口平八の次男・伊助がモトに養子入りしています。つまり末期養子(まつごようし)です。明治6年生まれの伊助は当時7歳で、二宮忠作とは兄弟として九八に養育されたものと思われます。

 

 伊助の実父・野口平八は外入村の住人でした。東和町誌によりますと、野口家は播磨から移住した武士の末裔で、宗家は外入の庄屋を務めた名家のようです。過去帳から、野口家と友澤家は姻戚関係にあったのは間違いないのですが、野口平八が友澤の血を引いていたのかどうかは、入手可能な資料からは判断できませんでした。また伊助の実母についても不明です。ですから私の曽祖父・伊助が友澤の血を引いているのかどうか、現状でははっきりしません。

 

 伊助の妻、すなわち私の曽祖母・ヨシは貞末彌助の養女ですが、実の父母のことはわかりません。伊助はヨシとの間に五男五女を設けました。長男に「政昭」という、二代惣右衛門の諱(いみな)を与えていることからも、沖家室友澤家へ養子入りしたことをかなり意識していたものと思われます。


 伊助が沖家室から神戸に出てきたのは、ヨシが長男・政昭を懐妊しているときだったそうです。これは明治33年に実質的な養父である二宮九八が亡くなって間もない頃のことと考えられ、これが東和町誌に記載されている「明治のいつ頃かはわからないが」という時期に相当します。伊助がなぜ友澤家に所縁の深い沖家室を出てきたのか、そしてそれがなぜ神戸だったのかは不明ですが、二宮九八の死がきっかけだったのだと思います。それまでは恐らく魚の仲買などで生計を立てていたのでしょうが、世の中の変化でそれが無理になったのかもしれません。二宮九八が亡くなって間もない頃に、実質的な兄・二宮忠作と協議して広大な屋敷を手放したのではないかと思われます。


 伊助は、太平洋戦争後間もない時期に瀬戸内海上で海難事故により亡くなりました。過去帳では命日は昭和20年10月12日となっています。松山へ疎開するために居を構えていた神戸から乗船したとのことですが、松山には現れなかったそうです。


 この時期の瀬戸内海での海難事故を報じる新聞記事には、神戸から松山へ向かう船の話はありません。戦後間もないこの時期、定員オーバーの船が転覆したり機雷の事故に遭ったりすることは珍しくなく、新聞報道されないことも多かったのかもしれません。また昭和20年10月には阿久根台風と呼ばれる台風が上陸し、11日早朝に中国地方から日本海に出て、12日から14日頃まで秋田県沖で停滞状態となったとの記録があります。愛媛県での水害は甚大だったことが報じられています。瀬戸内は台風が既に通過していたとは言え、12日にもまだ海が荒れていた可能性が高いです。12日に神戸から愛媛に向けて出航した小さな船が転覆または機雷事故に遭い、それが新聞では報道されなかったのかもしれません。また松山の三津浜に進駐軍が上陸したのが11日であり、何らかの関連があった可能性もあります。


 伊助の遺体は発見されなかったため、沖家室の墓地には埋葬されていません。数年前、祖父・政二の遺品の中に、若い頃の一家団欒の写真を見つけました。曽祖父・伊助と曽祖母・ヨシが写った唯一の写真です。私は沖家室を訪れた際、この写真を持って観音堂の友澤家墓地にお参りし、先祖の冥福を祈りました。


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伊助一家。昭和4年か5年の写真と思われる。

最後列左が私の祖父・政二(伊助次男)。その前の2人が伊助・ヨシ夫妻。



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