友澤開基・惣右衛門徳昭には3人の息子がいたようです。
長男は四郎左衛門重昭と言い、元和元年(1681年)に浮島を開拓した記録が「浮島開闢伝記」(石﨑権一文書)に残っているようです(宮本常一著・瀬戸内海の研究)。次男は惣兵衛、三男は庄三郎と言います。庄三郎の子孫が姓を石﨑に復して浮島石﨑家の祖となっています。
四郎左衛門重昭は早世したため家督を継がず、その長男の惣右衛門(左兵衛)政昭が二代目として家督相続しました。享保12年(1727年)に遠近附という役職に出世しており、毛利家御船手組の本拠地である三田尻(現在の防府市)に留まる必要が出てきました。そして林久右衛門貞重三男の貞昭(初代・惣右衛門徳昭の娘の子と考えられます)が養子として家督(三代目)を継ぎ、この系統が三田尻本家として幕末まで毛利家に仕えることとなります(萩友澤)。
泊清寺墓地の四基の墓石のうち、一番右側は過去帳に「惣右衛門母」あるいは「左兵衛母」と記載された冷誉林保禅定尼のものでした。これは二代・惣右衛門政昭の母、つまり四郎左衛門重昭の先妻(津田市左衛門直信の娘)のことです。よってその左側に隣接して立つ大きな墓石は、風化して戒名は判読できませんが、四郎左衛門重昭のものである可能性が高いです。
一方、初代・惣右衛門徳昭の次男である惣兵衛の息子・彦右衛門が沖家室友澤家の三代目となり、御番所を守っていたと考えられます。しかし系図が残っていないため、四代・彦七が彦右衛門の息子なのかどうか判然としません。惣兵衛と彦右衛門の墓は観音堂の墓地にはありません。そして彦右衛門には古谷長四郎という息子がいたようで、子孫は代々古谷性を名乗っています。また彦右衛門の戒名には院号はありませんが、四代・彦七母には實相院という院号が付いています。後述しますが、これは初代・惣右衛門徳昭とともに後世に追贈された可能性が高いです。そして観音堂墓地に単独の墓石があります。これらのことから四代・彦七の父は戒名に院号の付いている二代・惣右衛門政昭ではないかと私は考えていますが、現状では真相は不明です。
四代目までの推定略系図