「尼崎市史 第六巻」(1977年)の「10. 尼崎の漁業と魚市 3. 生魚取引」に、山口県文書館所蔵として、「周防国沖家室島生けす業創始由来書」という文献が紹介されています。魚生簀創始業者として七郎兵衛、彦七、善兵衛が記載されており、明治28年9月時点での「現今経営者」が柳原兵左衛門、友澤伊助(私の曽祖父)、青木勘五郎です。
生け簀業の創始に関して、貞享3年(1686年)に阿波国堂ノ浦から一本釣漁業が伝わったこと、先の3名が生け簀業を創始したこと、享保6年(1721年)に尼崎から生島屋庄七が訪れ生魚販路を拡張して数年間滞在し、4番目の生け簀業者となったことが記載されています。この「四商主」の由来を尋ねたが年号不詳、という記載がありますが、先の3名は享保6年には既に生け簀業を始めていたものと思われます。
この「彦七」は、1766年に亡くなった四代彦七以外あり得ません。享保6年には既に生け簀業を創業していたのですから、既に20歳代か30歳代であったと予想されます。つまり四代彦七は1700年以前に生まれていたと考えられ、その父親が誰なのか、考察し直す必要が出てきました。