沖家室友澤家の九代目であり、二宮余次の養子となった九八のことは以前ご紹介しました。
「防長回天史 第五編 下九 慶應記」の「第四十七章 慶應初二の兵制改革」に、「南第十一大隊 二宮餘次人數半小隊」との記載があります。この人物が九八が養子縁組した二宮余次のことと考えられます。
「東和町誌−各論編−第三巻 漁業誌」によりますと、明治11年(1878年)頃に沖家室の近海魚場の漁業権を巡る争いがあったようです。他府県からの入漁を認めるかどうかについて、生け簀業者(仲買人)と漁師さんたちの間で意見の相違があったようです。
当時生け簀業者は沖家室島の議員でもあり、漁業権に関する県への嘆願書に九八も議員のひとりとして名を連ねています。
一方洲崎の漁師さんたちから入漁取締方にと望まれていたのは友澤半三郎でした。これは生け簀業者と対立関係にあった漁師さんたちの側に半三郎が付いていたことを意味しています。次回ご紹介しますが、半三郎は九八の従兄弟に当たります。つまり友澤家内部でも争いがあったということになります。