友澤家で初めて沖家室の庄屋を務めたのは八代彦七で、天保2年(1831年)のことでした。山口県地方史研究(48)の「大島宰判の18・19世紀における庄屋一覧」によりますと、「友沢彦七」が天保2年(1831年)〜天保12年(1841年)と、弘化2年(1845年)〜嘉永5年(1852年)に沖家室庄屋を務めています。八代彦七の父と考えられる六代彦七は天保2年に亡くなっていますので、庄屋を務めた彦七は八代彦七のことです。
「東和町誌−各論編−第四巻 石造物」によりますと、周防大島町西方の下田八幡宮に「友沢彦七正春」と奉納銘文(嘉永元年=1848年)が残されているようです。
八代彦七と前後して沖家室の庄屋を務めた人物に友澤半左衛門と友澤半三郎がいます。
まず半左衛門ですが、天保7年(1836年)〜天保12年(1841年)に平群、天保13年(1842年)〜弘化2年(1845年)に沖家室、嘉永元年(1848年)〜嘉永5年(1852年)に外入の庄屋を務めています。外入の庄屋を務めている間に喜作と改名しています。
下田八幡宮に「友沢半左衛門照正」と奉納銘文が残されているようです。八代彦七の後に沖家室の庄屋を務めていること、また八代彦七が正春という諱であることから、その弟だった可能性があります。
次に半三郎ですが、半左衛門が外入の庄屋を辞するのと入れ替わるかたちで嘉永5年(1852年)から西方、油良村三地所、沖家室の庄屋を務めています。
「東和町誌−各論編−第一巻 むらの成立」に資料として、昭和7年以降に書かれたものと類推される家室西方村の「村誌」が掲載されています。沖家室の庄屋に関する記述があり、「石崎氏の後を受けたるは友沢氏にして友沢彦七氏に子なく後を甥の伴三郎氏に譲る、友沢家の旧蹟は今の角忠一帯のくぼみなりと聞けば如何に当時大なるかまへなりしかを推察出来得る」とあります。八代彦七が半三郎に庄屋を交代したのは嘉永5年(1852年)のことで、当時嫡男の九八は15歳という若年だったために庄屋を引き継げなかったというのが実のところだと思います。しかしこの記述から、半三郎が八代彦七の甥であり、やはり半左衛門が半三郎の父、八代彦七の弟ということになると思います。