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ルーツ研究

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勝山 真人

京都市


沖家室島はルーツ

沖家室友澤家につきまして(第六弾)

友澤姓のふるさと・沖家室

勝山 真人 2017年9月18日 投稿

 これまで、私の母方の先祖の家・沖家室友澤家についてご紹介させていただきました。先日初めて関西かむろ会に参加させていただいた折、「友澤」という名字をご存じの方がほとんどおられず、時の流れを感じるとともに、少し寂しい思いをいたしました。そこで今回は沖家室にルーツを持つと思われる、記録に残る友澤姓の人物について紹介させていただきます。

 

 そもそも石崎勘左衛門宗政の長男だった初代・惣右衛門徳昭が毛利家に召し抱えられた際になぜ友澤姓を名乗ったのか、その理由は不明です。曽祖父とされる石崎四郎左衛門日行が松山市興居島の明沢城主だったようですが、その城の名前と関係があるのかもしれません。

 

 ご紹介したように初代・惣右衛門徳昭の子孫は、毛利家に仕えた萩友澤(惣右衛門家)と、後に沖家室で庄屋を務めた沖家室友澤家(彦七家)の二家に分かれました。沖家室友澤家の分家筋では、六代・彦七の弟と考えられる惣兵衛の血を引く家がありました。歴代当主の中に為松という名前があり、東和町誌に記載のある泊清寺十五世住職「友澤為松弟」はこの分家から出た人物だと思われます。

 

 東和町誌には「沖家室から外入に移住した友澤与惣兵衛という伊予松山藩の御手大工」がいたことが記されていますが、沖家室友澤本家との血縁関係や活躍した年代は不明です。しかし現在、友澤姓が山口県や愛媛県に多いのは、この与惣兵衛の子孫が外入や松山で繁栄したことによる可能性もあります。東和町誌によりますと、外入の西光寺の檀家に友澤姓が見られ、安政3年(1856年)から名字を名乗ったようです。


 東和町誌には他に、「御恵米方 友澤半左衛門」という名前が見られます。天保の大飢饉に際して藩が小松の塩田開発を推し進めるために出資金を募った際、庄屋だった八代・彦七とともに応募したようです。「恵米方(けいまいがた)」は長州藩で大庄屋を補佐する役職とのことですので分家筋と考えられますが、沖家室友澤本家との血縁関係はわかりません。


 また文久3年(1863年)の長州藩の農兵隊員だった「沖浦五ヶ村・安下庄・沖家室 友澤半三郎」という名前が見られます。やはり沖家室友澤本家との血縁関係は不明です。「友澤半三郎」という名前は、明治15年(1882年)に広島県呉市の倉橋島で日本初の西洋式ドック(造船所)を創った人物と同一ですが、別人である可能性が高いです。倉橋島の友澤半三郎は、享和年間(1801-1804)から「怒和屋(ぬわや)半三郎」として記録が残る船大工の棟梁のことのようで、何代かに渡って当主が半三郎を襲名していたと考えられます。しかし広島藩領とは言え倉橋島は海上ルートなら周防大島から近いこと、周防大島のすぐ東にある松山市怒和島(ぬわじま)から取ったと思われる屋号を用いていること、また長州藩との関係が深かったとされる船大工であることから、倉橋島の友澤半三郎は先の伊予松山藩の御手大工・友澤与惣兵衛の子孫だったのではないでしょうか。


 このように、沖家室から友澤姓が周辺の島々に広がっていったと思われます。友澤は今でも比較的珍しい名字です。もしこのホームページをご覧になっておられる友澤姓の方で、ご先祖の逸話などをご存じの方がおられましたら、ぜひご連絡いただきたいと思います。



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