6月最初の日曜日、“東京かむろ会”という同郷人の集まりにゲストとして参加した。東京から川一つ隔てた川崎の、駅ビルのホールがその舞台となった。例年なら5~60名は下らないというが、震災がらみの自粛ムードのあおりを受けてだろうか、集まったメンバーはその三分の二ほどにとどまった。
顔ぶれを見ると、高齢者と若手の存在が目立った。上京して半世紀に及ぶような人たちと、その二世が大きな部分を占めるようになったためらしい。他の地区からは、地元菩提寺の住職をはじめ、大阪や宇部のかむろ会からもゲストが招かれていた。集まった人たちは、みな極めて狭い地域の出身者なので、会はいたって和やかな雰囲気であった。
この“かむろ会”という同郷出身者の組織は、東京のほか、大阪、広島、宇部、そしてハワイにもあるという。まさに、郷里の歴史をそのまま反映した会のようだ。“かむろ”とは、屋代島(通称・周防大島)に寄り添うように浮かぶ沖家室(おきかむろ)島がその由来である。
沖家室島は、周防大島と狭い瀬戸で隔てられた“離島の離島”である。いまは、1983年完成の全長380メートルの橋で周防大島と繋がっている。島の面積は0.95平方キロで、城ケ島の0.99平方キロ、あるいはディズニーランドのディズニーシーを合わせた面積1.0平方キロとほぼ同じ大きさである。
この島には約400年前から人が住み始めた。古くは、瀬戸内海海上交通の要衝として、また瀬戸内海有数の漁業の町として繁栄を極めたそうだ。人口は最盛期の明治には3千人を超えていたが、近年は過疎化が進み、今では200人を大きく割り込むところまで落ち込んでいるという。
狭いところに人口が集中していたため、人々は島の外へと活路を求めて旅立っていった。明治になると移民も始まり、ハワイ、台湾、韓国など、その目的地は地球規模の広がりを見せた。地元に残った人たちも、夢を求めて飛躍していった人たちも、みな手を取りあい助け合っていったという。
その連携をうまく機能させたのが、“心をつなぐ架け橋”の合言葉のもとに張り巡らされた絆のネットワークであり、その中核組織がかむろ会であった。同郷人の親睦組織は、かむろ会を包含する形で東和町人会があり、さらにそれを大きく包み込む大島郡人会がある。しかし、会員同士の結びつきはその規模に比例して緩やかとなり、きずなの強さはかむろ会に遠く及ばない。
そのかむろ会といえども、架橋後に訪れた永六輔氏が残されたという指摘は、これからも大きな課題として残るはずである。「橋は島を繋いだ。橋は心を繋ぐだろうか」。
(2011年6月6日 藤原吉弘)