私の進路決定の状況
かむろ会 八木正共様
西村季芳さんの「沖家室島_1&2」のメールを興味深く拝読させて戴いております。
沖家室以外にも、(旧)白木村(家室西方村) 周辺の、大へん貴重な色々な昔話を古老の方々から伺えますのは、まことに有難い事ですので、今後も色々な方々が投稿されてお話してくださると、大きな大きな感謝に存じます。
付記:私の祖父である大濵清助は、家室西方村の村長を永年務め(その間に下田郵便局を開設し)、村名を家室西方村から白木村に改称し、白木山が家室西方村の何処からも見えるので、白木村と名付けたと祖父から聴きました。祖父大濵清助は、村長を後輩の方々に受け継いで戴いた後も、下田郵便局が電報電話局も兼業していましたので、多くの地元の若い方々を下田郵便局と下田電報電話局の職員として採用しておりました。
私の母の大濵芳枝(よしえ)は、電報電話局の職員を永年務め、モールス信号も活用し、電話交換業務に習熟していました。郵便局の方は、大濵清助から私の父である大濵忠夫が二代目の郵便局長を受け継いで永年務め、三代目の郵便局長は私の実兄の後藤清人が務めました。その後は、時代の趨勢に合せて広く色々な方々が局長を務めて下さって現在に至っております。
私大濵純三は、三男で自由でしたので周囲の人々のお勧めに沿って東京大学への進学を目指す事となり、高校2年の4月から、当時東京都心で生活していた15歳年上の長兄の家に寄留して勉学に専念する事になり、東京都立九段高校2年に転入し、駿台高等予備校等で学び、文科か理科かなかなか決めかねていた進路を、2年間の浪人中に、音楽鑑賞が一番好きである事を仕事にする音楽評論家になろう、と考えるに至り、それに最適の東大の文学部美学科への進学を目指す決心を固めて、東大に合格するに至りました。2年間の浪人生活はこの進路確定のために神様が設定されたものだったのであろうと現在でも思っております。
永年を要した私の進路決定過程を非常に簡略に記しましたが、ご参考に受けとめて戴ければたいへん有難く存じます。どうぞよろしくお願い申し上げます。本日はここまでとさせて戴きます。
2021年3月16日(火) 故郷周防大島と首都圏で、永年交流を保った方々への感謝をもって 大濵純三 拝