行きつけのスーパーに、わがふる里のブランドのついたミカンが沢山並べられていた。うれしくなって一袋買ってきた。実は、わが家には、ふるさと納税の返礼品としていただいたミカンが、まだたくさん残っていた。しかし、“買わないという選択肢はない”と思い買い物カゴに入れた。
わが実家には、先祖伝来のミカン畑が2反と田圃が1反7畝あった。父は工務店を営んでいたので、田畑の維持管理はもっぱら母の仕事だった。零細農家の範疇にも入らないほどの小規模なものだったが、鍬と鎌しかない時代に女手一つで切り回すには過酷といっていいほどの重労働だった。
私は貴重な男手として、小学校低学年の頃からそれなりに当てにされるようになっていた。学校から帰ると、“戸棚にサツマイモの蒸かしたのがあるので、それを食べて○○山のミカン畑に来なさい”という母の置き手紙があった。私は、肥料となる家の生ゴミを背負ってそこに出かけていった。
耕耘、草刈り、施肥、剪定、消毒、摘果、収穫、肥料や果実の背負子あるいはリヤカーによる運搬などなど。もちろん、ミカンだけでなく田圃の稲や麦の世話もある。当時、家の手伝いは当たり前だったので、半人前なりに淡々とこなしていた。むしろ、“男の子としての自我”が、それを後押しさえしていた。
進学のため上京して以降は、心ならずも家の手伝いは叶わぬものになってしまった。あるとき、帰省してみると、島中をダンプカーが行き交い、田圃が次々と埋め立てられていた。ミカンブームが到来し、農家は稲作をやめてミカン作りへの全面的な転換をはかろうとしているところだったのだ。
ブームは意外と短かった。経済の高度成長が様相を一変させた。輸入自由化により、店頭に並ぶ果実の種類と量が飛躍的に増え値段も大きく下がった。その一方、農家の人口流出が続き、耕作放棄されるミカン畑が増え続けた。手入れされなくなったその畑は、数年を経ずして竹薮へと姿を変えていった。
ミカンの種類は一つと思われていたものが、近年飛躍的に多様化してきた。温州ミカンの範疇だけでも、日南プリンセス、宮川早生、南柑20号、石地、大津四号、青島、そして寿太郎などがある。近縁である南津海、せとみ、はるみ、せとか等を加えると、消費者の選択肢は大きく広がっている。
近年は、ミカン市場の縮小、生産人口の減少、イノシシなど害獣被害の激増とトリプルパンチに見舞われ四苦八苦のようだ。打開策の一つとして、焼いたミカンを具材としたミカン鍋が考案され、名物料理に育てられつつあるという。
ふる里を遠く離れ、なんの役にも立てないでいるが、せめてその特産品であるミカンにだけは、なんとしても再興の道をたどってもらいたいものだ。
(2020年2月19日 藤原吉弘)