友澤開基・惣右衛門徳昭の祖父に当たる初代石﨑勘左衛門は、1606年(慶長11年)に沖家室島を再開拓したと伝えられています。その出自も含め、1985年頃に石﨑・友澤の子孫が編集した家系図が石﨑総系譜です。これは主に以下の資料を参考にまとめられています。
〇 松山市興居島泊の石﨑総本家の「石﨑家譜」
〇 屋代島油宇石﨑家系図
〇 沖家室石﨑宗家の六代勘左衛門と菩提寺の泊清寺七世幡龍が宝暦13年(1763年)に編纂した「石嵜系譜」
〇 三田尻友澤本家の「友澤家系図略伝」
これらの資料を総合すると、石﨑氏の遠い先祖は奥州で城主だった中村氏であり、南北朝時代に伊予に下向、河野氏の家臣となった、ということになります。
しかし系図に明らかな年代の不一致や、後世に挿入されたと思われる部分が存在します。私は友澤の子孫のひとりですが、客観的に判断すると、石﨑氏の遠い先祖が奥州の中村氏だったという説には無理があるのではないかと思っています。
また初代石﨑勘左衛門の父または祖父に当たるとされるのが、興居島の明澤城主だったとされる石﨑四郎三郎日宗です。しかし城主だったというのはやはり根拠に乏しい話です。
石﨑氏は伊予河野氏の家臣だったとされますが、伊予河野氏を扱った専門書に石﨑あるいは友澤を名乗る家臣が登場するのを私は見たことがありません。伊予河野氏最後の当主時代、天正3年(1575年)の分限録に、「御祐筆頭衆 石崎監物」「浮穴群衆 石崎与一」との記載はあるようです。石﨑氏のルーツが浮穴郡(うけなぐん)石崎との説もあるようですので、伊予河野氏の家臣に石﨑姓の人物がいたのは間違いないのでしょう。ただ興居島・沖家室の石﨑・友澤一族との関連は不明です。実際のところ興居島・沖家室の石﨑一族は伊予河野氏の直臣というよりも、村上海賊に属する一団だったのではないでしょうか。