愛媛県松山市「興居島」の、郷土史を研究する田中正人です。
その節(2014.10.29) に、沖神室島「石﨑家」の墓地にある「無縫塔」について問い合わせをさせて頂きました。(興居島の明澤城主だった、石﨑四郎三郎の墓石ではないかと。もし、泊清寺さんの方ででも分かればお教え下さい。)
さて、この度、勝山真人さん投稿(2019.09.15) の 「沖家室の友澤氏の祖・石﨑氏」 について、私見を以下に述べさせて頂きます。
(1) 石﨑氏の遠い先祖が奥州の中村氏だったという説には、無理があるのでは
私も、そう思います。平泉澄先生の著書「物語日本史」における、後醍醐天皇 / 楠木正成 / 建武の中興 / 吉野五十七年 / 室町時代 なども調べてみましたが、石﨑の祖とする 「中村弾正忠通日(日通)」の名は出て来ませんでした
(2) 石﨑四郎三郎日宗が興居島の明澤城主だったというのは、根拠に乏しい話では。
こちらは、以下の書籍に記述されております。
【伊予温故録】 明治27年(1894) 元伊予新谷藩士 : 宮脇通赫 編集
・・・ (和気郡明澤城) / 「 興居島の内 本浦に在り、河野家十八將の一人 侍大将船大将兼帯 村上備中守吉光の旗本組衆 村上信濃守弘正これに居る、後ち 石﨑四郎三郎 居る 」
・・・ (厳島神社) / 「 興居島の内 本浦に在り、當嶋明澤城主 石﨑四郎三郎 天正八年(1580)九月十五日、これを勸請せり 」
(3) 興居島・沖家室の石﨑一族は伊予河野氏の直臣というよりも、村上海賊に属する一団だったのではないか。
そう、思います。
天正3年の「河野分限録」には、興居島の城主は「村上信濃守弘正」となっており、河野の家臣団に石﨑四郎三郎の名はありません。添付の地図 「村上三家の城 (因島・能島・来島)」は、愛媛県史:中近世「伊予の城割り」の資料ですが、興居島は黒四角で「因島村上」氏の城になっています。
従って、石﨑四郎三郎は、村上信濃守弘正のあとに居て、古地誌や石﨑家文書・その他資料によれば、時系列的に次のようになるかと ・・・。天正4年から8年の間から、天正13年くらいまで居たのではないかと思われます。
永禄12年(1569) 明澤城主 村上信濃守弘正 「弘正寺」創建 【新編 温泉郡誌】
元亀年間(1570~73) 船越よいう古城 村上信濃守が居た所 【伊予古蹟誌】
天正3年(1575) 村上信濃守弘正 興居島城主 【河野分限録】
天正8年(1580) 當嶋 明澤城主 石﨑四郎三郎 「厳島神社」勸請 【伊予温故録】
天正14年(1586) 秀吉四国平定 伊予の城割り (十城に) 【小早川隆景書状】
「湯築、大津(洲)、せり、本尊、興居嶋、鹿嶋、来嶋、小湊、櫛簿、壬生川」
天正15年(1587) 嫡子 石﨑四郎左衛門日為 福島左衛門太夫より 「社務職」を仰せつかる 【石﨑家・天保の記憶】
慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い、後 (四城に) 「松前、国府、来島、鹿島」 【愛媛県史】
元和元年(1615) 一国一城令 公布
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