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ルーツ研究

masato_katsuyama 

勝山 真人

京都市


沖家室島はルーツ

初代石﨑勘左衛門とは?(1)

勝山 真人 2019年12月12日 投稿

 慶長11年(1606年)に沖家室島に移住して再開拓した石﨑家の当主「初代勘左衛門」については、資料によって記述が異なっており、どれが事実なのか判断するのが困難です。


 沖家室の石嵜系譜によりますと、「石﨑氏は奥州岩﨑城主、北畠顕家十三代の後胤中村某正流」「中村某伊予河野の下風早郡に居城し興居嶋等を領し、姓を石﨑、名を善兵衛と改めた」「河野氏没落の頃共に落城に及び」「周防大嶋郡小泊村に着す」「右の善兵衛が名を勘左衛門と改めた。これが沖家室島の開基石﨑氏中古の元祖」「中村を石﨑と改めたのは、岩﨑城主だったので岩﨑とすべきところを、上を憚り山を取って石﨑と改めた」「あるいは友澤とも名乗ったことを旧記に見た。古い系譜は風早郡の菩提寺に納めてあると言い伝えがあるが、末葉が今も興居嶋等に散在し、同名を名乗る」といったことが書かれています。つまり「石﨑善兵衛」が初代勘左衛門尉顕宗であり、小泊(油宇の西にある海沿いの町)を経由して慶長11年(1606年)1月20日に当時無人島となっていた沖家室島を再開拓したということになります。ただし「顕宗」という諱は他の資料には見られず、石﨑氏が北畠顕家の後胤と称したことによる諱の設定ではないかと思います。


 油宇石﨑家の系図では、「石﨑四郎入道道閑日宗」の後については、兄の四良左衛門尉日為(河野殿エ随身日宗家督ス)と弟の次郎左衛門尉日行(能嶋殿エ随身後屋代嶋居住)に分かれています。日行の長男が油宇石﨑家の祖とされています。日行の次男が「石﨑勘左衛門」であり、「阿下ノ庄エ引越其後家室エ参切開住ス」と記載されています。


 興居島の石﨑家譜では、石﨑四郎三郎日宗の長男が日為、次男が日行である点は、油宇石﨑家の系図と一致しています。日為が興居島石﨑総本家の祖となり、子孫は興居島の庄屋を務めています。日行については「油宇浦へ分居ス」となっていますが、子孫の系譜が「周防国沖家室島へ」と記載されているだけです。

    

 一方三田尻友澤本家の「友澤家系図略伝」では、石﨑四郎三郎日宗の長男が日為、次男が日行である点は同じです。四郎左衛門尉日為については「河野大乱之時討死ス其後不詳」とあります。治郎左衛門尉日行については「(能島村上)武吉ニ仕テ」「屋代嶋ニ渡リ石﨑勘左ヱ門ト改メ」「子石﨑庄太郎其外家頼ト共家室ニ渡リ」とあります。つまり日行が初代勘左衛門ということになります。

 
 

どの説が正しいのか、またどれも正しくないのか、この辺りは系図の意図的な操作も感じられ、判断のしようがありません。

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