この記事は1980年(昭和55年)3月7日付け中国新聞に掲載された。13号のうち、3号に父のことが書かれてあった。
この記事を書いたのは、当時の中国新聞大島支局長を務められた二反田正康記者。先日、鯛の里を訪れてくださったときに見せていただいた。
父が遊漁を始めたのは記事の日付から7・8年前とあるから、1973年ころとなる。ということは僕が17歳の時。確かに、高校2年生のころに遊漁のお客さんが家に来ていた記憶がある。
父は47歳。当時の遊漁料金が3人まで35,000円だったと記憶している。そのうち5%が組合への上納金。「全部は手元に残らんのじゃ。ゴブノコウセン(5分の高銭)を払わにゃならん」と律儀なことを言っていたのを覚えている。今思うと料金がずいぶんと高い気もするが、それだけ釣れたのだろう。お客さんがいないときは僕も漁について出ていたからわかる。生簀の中は鯛やハマチであふれ、大漁のときはすべての生簀の栓を抜いた。帰りの船は足が重く、島で一番大きな船のクセにドンドン抜かれていった。
父が遊漁組合の結成を呼び掛けていたのは知らなかった。記事が掲載された1980年は、僕はまだ24歳のとき。すでに広島で働いていて、中国新聞をとっていたが、こんな記事が出ていたなんて知らなかった。
他の記事もなつかしい。かむろ瀬戸を渡した瀬戸丸、民具収集に尽力した薬局の木村新之助さん、沖家室小学校に通う11人の子どもたちを22の瞳と書いて紹介した。このほかにも島の赤ひげ先生と言われた柳原医院の利夫先生、架橋に力を尽くした宮本常一先生や泊清寺新山住職(当時副住職)の奮闘も伝えている。住職も当時29歳で髪もふさふさ。
中国新聞、地域とともに歩んだ地方紙の姿をみた思いがする。
松本昭司