「有るか、無いか、判らない物を、探して、 良くも、二人の馬鹿が揃った」と山田が言う。 「あんたはタフじゃのんた」とそらす西村さん。 いかに道路が良くなったとはいえ、八十五歳の山田に気を遣いながら、七十五歳の西村さんの運転、なんの得にも儲けにも、ならんのに。
宮の浦に十時頃に着いた。 山田は同級生の古谷仲次郎君と昭和二十四年、この沖で漁をした事がある。 当時の記録が無いか漁業組合の事務所に寄り聞くと、此処には何も残っていない。 ここは支所だが、本所になら残って居るかも。
トラックの運転手の話、「スーパーに押されて今は店を止めたが、店をやっていた頃は、山口県沖家室の漁師が大勢店にきていた事を覚えて居る。」と話してくれた。
山田が来た頃はお宮が有る所は、島だったが今は埋め立てて繋がっている。 お宮の何処かに、家室の漁師の遺跡が残っていないか西村さんと二人で行く。 お宮も、宮の浦の、町の何処にも昔の家室の漁師の面影や遺跡は見つからなかった。
瀬戸内海の沖家室から玄界灘の荒波を越して、平戸島の突端、宮之浦まで来始めたのは何時の頃からだろうか?
今の内に、その先輩の足跡を探して、後輩に残したい思いで、西村季芳、山田重利、馬鹿の物好きが二人も揃って探す。
(補追)以下は西村季芳さんの調査の記録に依る。
.... | 西村 萬太郎(西村総本家九代目) |
「松尾 役松」の先祖 | |
松尾 新七・兼松 弘化三年亡三十四歳・役松(養子)明治三十六年亡三十八歳 先祖は同じ | |
兼次郎三十八歳亡・勇市七十一歳亡・弟・岩次郎二十五歳亡・水難 | |
「松尾六兵衛」 勘太郎 勝太郎 実 勝 | |
実・昭和四十年五月二十一日佐賀県鹿島より勝の妻と実、沖家室に来訪、勝の骨を持ち帰り、母は再婚。 | |
山田弥助は山田松蔵の兄で松蔵は山田重利の祖父 |
*伊万里組の事を書いたと言う書類を(明治十二年卯十月初大島儀論の入費払の事)「西村利吉」さんの孫「利之」さんからお借りした。 それは唐津組とは別に同地方で活躍して居たようで、同じ名前が出て来ない。
長太郎・徳平・平太郎・長左衛門・亀松・仙太郎・庄吉・勘次郎・勘作・?次郎・金助・太郎松・坂次郎・福松・茂作・安太郎・五郎吉・松次郎・清次郎・徳次郎・亦吉・市五郎・武蔵・北勘・要太郎・兼臧・甚吉・好枩・吉太郎
二十八艘、一艘に付 金十五円宛 出金
〆 四百二十円
壱百円 山 吉 ヨリ借り
壱百円 本 市 ヨリ借り
弐百円 大黒屋 ヨリ借り
〆四百円
二口合計 八百二十円
この金は魚を獲る為の入漁料と思われる。当時は一艘の船に五人か六人乗って居た筈だから、伊万里組だけでも百五十人の人が沖家室の島から出て行って居た。
馬関組の人を加えると大勢の沖家室の先祖や先輩が活躍して居た事だろう。 おそらく、呼子の港を基地にして、五島、対馬はもとより、朝鮮、支那の青島までもわが庭で遊ぶ位に、動きまわっていたに違いないのでは?
来年、春温かく成ったら、西村さんと五島に行って、何か見つけて書く事にする。
終わり