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ルーツ研究

山田重利

山田重利

  元東京かむろ会会長


山田重利・西村季芳と先祖の足跡を訪ねて-8

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                            山田 重利 2013年11月28日 投稿
(山田重利氏は2011/10/2に逝去されました、享年96歳。)

 【注釈】

今では「関の八艘組」の名前も船団の仕組みを知って居る者が少ない、今の内に覚えて居る事を書き残して置きたい。
関の八艘組は初代、山田弥助が大船頭で、後に関の八艘組を解消、発展し名前を馬関組と替え、弥助の弟「山田松蔵」が大船頭となり北九州の芦屋の沖に六郎瀬と言う漁場を開拓し大いに発展した。 「山田松蔵は、山田重利の祖父で育ての親である。」
馬関組の船は四丁櫓の船が殆んどで一艘に五人か六人が乗り、各船に船頭が居て四艘を一組に組船頭がいてその組織の上に大船頭が居た。 判り安く言えば、班長が居て其の上に大隊長(大船頭)が居た。
大船頭は魚価の交渉や、漁場の契約で時には、何日も漁を休んで裁判所に通い組全体の家族と生活を守る重大な責任が、大船頭に有り外交の手腕と人望の人が選ばれて成った。
当時は運搬船が無かったので、次のような方法で獲った魚を運んだ。
四艘の釣った魚を一艘に纏め、交代で若松港や下関の市場に運び残った三艘は台風で関釜連絡船が不通になるような頃迄漁場に踏み止まり漁をした。
そんな無理をして、遭難する船も出た、其れを山田松蔵は心配して「漁具なんか放棄して港に帰れ、命の方が大切だ、命が有れば漁具なんか幾らでも買える、命は粗末にするな」と、言うたのだが、と爺さんは話して居た。
昔の人の考え出した智慧で、魚の運搬方法はそれに依って組の一心同体と団結の気持ちが一層強く成ったと思う。
市場に入ると、切符を2枚呉れる、お酒なら、十八リットル入りを二本、お菓子なら、石油缶に入った菓子を二缶もらえた。
山田甚吉(山田重利の父)は、いち早く菓子に代えて一人占めにする。 他の者はお酒が欲しいと思っても、相手が大船頭の倅ではどうにもならない。
当時の馬関組の人達の話では、「ぜんざい」を何杯食べたら無料にする、大福餅を幾つ食べたら、無料にするとかあって、甚吉と弟の直二郎は「お前達は無料になるまで食べるから」と、何処の店でも断られた。
「甚吉」はお酒は飲まないが、菓子が好きで沢山食ってとうとう胃癌になって、(三十七歳)で亡くなった。 重利が四歳七か月の時だった。



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