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ルーツ研究

屋代源三 

屋代 源三

周防大島郷土史研究家

沖家室島はルーツ

周防大島(屋代島)と青木家

 屋代源三    2020年11月28日投稿

3.周防国大嶋郡八代嶋「青木系図」


『本国美濃城主

  青木氏元祖申者

  多治比王二十代の後胤

  青木武蔵守直兼

  五代の孫

  大河内修理亮 青木和泉守元行


から始まる周防国大嶋郡八代嶋「青木系図」であるが、明治初期の最終謄写本と思われるこの系図は室町末期(戦国時代)以前の記録を失っている。


この様な系図はよくあることで、系図は記録媒体として和紙に書かれるが、多くは「巻物」形式で別に、紙を半分に折りたたんだ所謂「冊子物」とに分かれます。夫々、長短がありますが、血筋の相関関係を示す系図線を記入するには「巻物」のほうが都合よく、一方、個々人の記録や書簡や重要な文書文を記載するには冊子形体が便利と思われます。


青木系図は「巻物形式」ですので、系図線が入っています。系図線が入っている形式を「系図」とすし、系図線の入っていないのを「系譜」と区別する人もいます。大名家のような提出系図は双方の形式を併せもつ形式もあります。

青木系図は戦国末期から始まりますので、以前の記録はありませんが、唯一、


『本国美濃城主

  青木氏元祖申者

  多治比王二十代の後胤

  青木武蔵守直兼

  五代の孫

  大河内修理亮 青木和泉守元行


がヒントとなります。少し、他文献より補強してみましょう。


「本国を美濃城主」としていますが、これは、美濃城という城ではなく、美濃国(岐阜県)の城の意味と思われます。


「青木氏の元祖と申す者、多治比王から数えて二十代の後胤(末裔)青木武蔵守直兼」とありますが、多治比王とは、宣化天皇(467~539)の四代後の後裔、多治比古王(賜姓多治比)(624~701)の事を指しています。多治比の姓を賜ったので多治比王と呼ばれています。この人から二十代後の人が美濃国に流れ、青木武蔵守直兼と称し、当時の美濃守護の土岐家の傘下で出城を持っていたようです。


青木の姓の根源は本貫の地である武蔵國入間郡青木より採ったとされます。入間郡の前は高麗郡ですので、所謂、武蔵七国に散らばって保留していた、朝鮮半島の高句麗人を一ケ所に集めたので高麗(コマ)郡と称したとされます。高句麗は白村江の戦いの時は和国の敵国となりますので、高麗郡の人たちは捕虜として連れてこられたのか、逆に倭国に逃げ込んできた人達なのか詳細はよく分かりません。武蔵国の青木の人たちはこれらの人々の管理をする役目を負った家と思われます。これらの家の一部の人が美濃国に来て青木武蔵守直兼を名乗ったのでしょう。

青木を称する系統は大きく、二流あって、多治比王流と藤原鎌足流とがありますが藤原流の系図を見ますと、多治比王流の人が藤原流に養子合流したことから青木家を藤原氏族に組入れてますので、多治比王流が本流と思われます。


どちらの系統も青木武蔵守直兼を元祖としています。この人は主家、土岐家を裏切った斎藤道三家に仕え、信長、秀吉の時代を経て、家康に仕えた青木一派が後に摂津の麻田藩主青木家となります。


これに対し、屋代島の青木は同じ美濃青木の別流と思われ、直兼の五代の孫である大河内修理亮家継と称します。家継は京に出て剣術を学んだとされます。


青木物語では青木姓が北河内となっていますが、これは、秀吉時代の変名ではないかと思われます。秀吉時代に敵対関係にあった家は探索を恐れ多くの家が変名しています。秀吉没後、本姓に復姓した例は多くあります。


このブログにある、屋代島の大野家は友田と変名し、平岡家は岡と変名しています。変名は身を隠すために一時的に行われる行為なので改姓ではありません。幕末の志士たちも当局の追っ手から逃れるため、多くの変名を使ったことは周知の通りです。


青木修理亮が大河内の変名を使ったとするなら、毛利家家臣大河内家とゆかりがあるものとも考えられますが大河内文書をまだ調べていませんので想定の範囲内です。


これらも併せ、探索してみましょう




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