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ルーツ研究

西村孝芳 

西村季芳
(沖家室島郷土歴史家)


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沖家室島歴史(その3)

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沖家室島の歴史(その3)

沖家室の郷土歴史家 西村季芳                           2011年12月03日投稿

 石崎系譜に示された慶長11(1606)年は沖家室再起 幕開けの歴史と言えます。 ちょうどこの頃、伊予 河野氏は長い争乱の歳月をえて(1588)年ついに滅亡。周防大島(屋代島)の各地域に河野氏所領から離散した多数の重臣、家臣たちが次々と亡命、避難して来た河野一党没落の年でもある。 したがって、伊予 河野海賊(水軍)・村上海賊(水軍)・忽那(クツナ)海賊(水軍)を主に瀬戸内海 東・西における、熊野,芸州武田、宇賀島(浮島)など海賊衆の激しい抗争の歴史を視野に入れないと沖家室の歴史は語れない。
内海大小、約3,000の島々の間に割拠(かっきょ)出没する海賊衆の内紛や時代背景を考えると複雑で詳述は難しい。焦点ボケにならないように、できるだけ簡明に進めてみよう。 ご存知のように、慶長5(1600)年は関ヶ原合戦(天下分け目の戦)で、歴史の節目であり、平成12(2000)年は数えて、ちょうど400年目に当たる。 徳川幕府の堅実な組織的体制の初めでもある。と同時に毛利藩は、防長2州に減封されての体制改革。山口県内では沖家室だけでなく、また名目は違っても国内各地で創立400年史記念の式典が行われてきました。
家室合戦
さて、もっと古い、その時点から、さらに約260年前に遡る(さかのぼ)中世、南北朝時代に家室合戦がありました。 延元元年(1339)年 北朝方=河野通冶、細川、武田信武の連合軍 と 南朝方=忽那義範、大将は冷泉持房の対戦であった。 南朝の伊予忽那七島(野忽那島、陸(む)月島(つき)、中島,二(ふた)神島(かみ)、怒(ぬ)和(わ)島、津和地(つわじ)島、柱島)を領有する忽那義範の勢力(制海権)の及ぶ大島周辺の家室が北朝の海賊衆に急襲された。その理由は伊予の忽那七島のうち中島に滞在(3年間)中の西征懐(かね)良(なが)親王(しんのう)を九州へ安全に送りとどける海路を遮断封鎖するための北朝海賊衆の襲撃手段であった。 両軍の戦いは決着つかずに終わり土居通重、通元は戦死した。
水無瀬島合戦
その10年後、正平4(1349)年に今度は逆に忽那義範が安芸の 北朝方 武田軍を水無瀬島で襲撃している。(別説では 家室島、由利島、大、小、水無瀬島)と述べています。
※参考図書:瀬戸内諸島と海道(山口徹著),周防大島歴史物語、愛媛県の歴史


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