「防長の健児 我が人の、、、」沖家室本浦青年会館では、はちきれんばかりの歌声が往還に鳴り響いていた。
昭和初期、まだ幼い私でも明治生まれの青年団員の意気込みに圧倒され、時代の夜明けを感じてきた。海外で、国内で、また地元沖家室では部落の行政、イベントなど常に主役を努めてこられた方々も敗戦の憂き目に、とくに引揚者はまる裸になって帰郷した。
貧苦のどん底に叩き落とされた私達、国民である沖家室人も、こちら宇部市に、どっと、転入して来られた。戦後の石炭増産ブームで景気上々。町は活気に満ちていた。「人間到るところに家室人あり」街を歩くたびに出会い「やあ、あんたもでえ」景気の上昇気流にやっと乗った郷土の人々の顔は意外に明るかった。級友あり、友人あり、親戚あり、家族を含めて、その数実に200人近いと言われていた。
初期の宇部かむろ会、会長の故河井忠治さんは会場探しに嬉しい悲鳴をあげるほど盛会。
しかし、石炭エネルギーも石油にチェンジ一挙に革命到来。否応なしに、家室人の多くはこの地を離れざるを得なかった。
他都市への転退職者に加えて、故郷を後に外地での長い生活から、やっとの思いで、母国に帰えれば何よりもお互いの楽しい絆こそ大切。今この楽しい集いを心待ちしていた方たちが次々に他界され。年々寂しくなる一方の宇部かむろ会になって次世代にバトンタッチも出来ないまま、ストップ状態に。
「止めないで!」夫々のかむろ会の皆さんからの激励の声に、メルトダウンさせてはいけない「灯をともし続けよう」と再起を図るつもりです。
そう、話変わって、今から約32年前山口市にお住まいの沖家室出身の故 中田先生を宇部市の故 河井忠治さん宅にお招きして、沖家室の歴史についてお話をしていただきました。ご存知のように先生は沖家室小学校に長年勤められ当時の写真にも凛としたお姿で拝見されています。戦後、先生は山口県庁に勤められました。戦前から沖家室の歴史に最も詳しい方として多くの人達から尊敬されていました。
中田先生のお話では:
◎ 沖家室住民みんな最初は漁業であったこと。
◎ 各家々には素晴らしい家系もあるので、一概に格差はつけられない。
◎ 独立発展した特異な島として決して漁師だと卑下すべきでない。
◎ 山口県庁の朝礼で県庁職員を前にして、元田中龍夫知事は「沖家室なくして山口県はあり得ない」とよく言われた。
◎ 森 寛斎は沖家室に居住したことがある。
◎ 生島やの北前船 など話は長時間に及び再会の約束を果たせないまま亡くなられたことは残念です。
ご存知のように一部みなさんに報告したのですが、私にとって縁戚にもなる山田重利さんと約10年前から以下の地点を、時には拓本を採りながら家室人先祖との関わり合いを調査してみました。
萩、下関、福岡、唐津、呼子 馬喰島(鎮西町)名護屋 平戸(長崎) 中津(大分方面) 天草 (熊本) 浅藻(対馬) 愛媛県 (宇和島)(八幡浜)郡内では小松と久賀で拓本採取。
今後、すこしづづですがこの調査の内容を説明してゆくつもりです。