アキラとバージニアの日本への旅
1998年5月、カナダ、マニトバ州ウィニペグ市の古谷アキラとバージニアはアキラの家族のルーツを見つける為日本を訪れた。
私達はこの旅が「冒険」になると覚悟しました。 私達には日本に連絡をとれる人は一人も無く私の日本語能力は殆んどなく、読み書きは全くできません。
私達には島の地図と1985年に川田シズコが作った「家紋」の拓(墓石の家紋を紙に当て鉛筆でなぞって造った拓)があるだけです。 私達には広島市で1日だけ自由に予定できる日がありました。 広島市は両親が生まれた沖家室島へ行くのにもっとも近い市ですが、私達がお沖家室島の場所を聞いても皆そんな所聞いた事も無いと返事しました。
当然でした、島は1km半の長さで幅は半Kmしかなく、大きな島のその先の小さな島なのですから。 幸いにもニューヨークの旅行会社が「防長バス」と言うローカルバスがあると教えて呉れていました。
私達の泊まっているホテルのコンシェルジェが防長バスに長距離電話をしてくれ1日で島へ行って帰る手続きをしてくれました。 コンシェルジェは電話で1時間半も手続きを交渉してくれ、最後には島からの帰りの道を違うルートにして何とか旅程を決めて呉れました。
ローカル鉄道に乗った後2つの路線バスを使ってやっと島にたどり着きました。
私達の次の課題はお墓を探す事でした。 バスの中で乗車している人みんなに私達がお墓を探している事を話しました。 バスには15人程の乗客がいました。 杖を持っている老婦人が自分の帰り道だと言って私達を案内してくれる事になりました。
杖の老婦人と道を歩きながら、私は母と父が子供の頃おそらく同じ道をこの海と丘(小さな山)を見ながら100年前に歩いたのだとの感慨が湧いてきました。 事実、母の実家は当時この山の1つを所有していたと聞いていました。
しばらく歩いた後、老婦人の家の近くになり、老婦人は何回も杖で山すそのある方向を指してくれました。 そこに、墓地がありました。
3 古谷家3代の墓が並ぶ:紋に注目 |
墓地に着くと、千近くある墓石の中から私達の家紋の墓石を探すのに1日以上はかかると思いました。 杖の老婦人は私達が墓地に行く事をあらかじめお寺に電話してくれて、私達が先祖の墓を探している事を伝えてくれていました。
有る老人(60歳後半か70歳前半)が私達に会いに来てくれてお寺の事務所に案内されました。 そこで、仏教の僧侶と彼の奥さんに会いました、二人とも40歳位に見えました。 彼らの使える英単語は大体100~200語ぐらいに思えました。
そこで、およそ2時間位話していたら、私達が欲しい情報が全て記載されている古い書類が有る事が判りました。 次のページにその書類の写真を載せます。
その後、私達は古谷家の墓石が並んで立っている墓場へ行きました。 僧侶は正装の衣に着替えて、私達の先祖の為にお祈りを上げて呉れました。(線香を炊き、時々鈴を鳴らし、お墓に水を掛けて終了しました。) 私は出来るだけの寄付をしました。 私は「非常に心地よく」、「満足した思い」を感じたのでした。
上記写真中の文章に間違いがある。「記録は右から左に読む」が正しい。
[写真中の文の訳]
この記録は沖家室島の仏教のお寺で見つかりました。 この書籍には長十郎の11代前まで記録されている(長十郎は11代目)。
1600年代の初期に古谷勘兵衛は沖家室島に住み始めた人々の1人(勘兵衛が初代と考えられる)。 「勘兵衛」という名は何代目か毎に繰り返し使われている。
記録は左から右へ読む。(本文に注記があるように右から左の間違い 訳者記)
日付は日本の日付システムから変換する必要がある。 例えば、初代「勘兵衛」の息子の日付は次のようになる、初代「勘兵衛」の息子は天皇「延宝」の代の7年目に死亡した。天皇「延宝」は1673年9月21日から1681年9月29日まで在位した。 7年目というと1673年プラス7年で1680年となる。 これで「勘兵衛」の息子は1680年2月14日に亡くなったとわかる。 初代「勘兵衛」の記録は残っていない。
(訳者記: 天皇の名前と和暦名と混同しているように思えるがそのまま翻訳。各和暦は最終年が次の年号の1年となるので延宝7年は1679年となるがそのまま翻訳。 古谷家の初代の名前「Kampei」は西村季芳氏(宇部かむろ会)による過去帳の調査から「勘兵衛」としました。
家室の初代の部分等で更に詳しいデータ、話をご存じの方は東京かむろ会八木正共まで連絡願えれば幸いです。)