カルフォルニア在住の妻の従妹(西村鹿蔵のひ孫)から“山口県出身、ヒロで漁師、鹿蔵の長女が松野亀蔵夫人、SUISANに関係”という情報のみで、周防大島の“日本ハワイ移民資料館”に問い合わせてから約4年がたった。
移民資料館や宮本常一記念館を訪れた時、天気の良いときは国東や姫島が見えると聞き、ますます身近なところとなり、九州との関わりを色々知ることになった。
姫島は約65㎞、大分市は約97㎞と近い!
1 唐津・田島神社の西村姓などについて
宮本常一著作集などによると、西村総本家は周防大島の下田などに始まり、屋号の“阿波屋”は徳島 県(阿波)の“堂の浦”から“一本釣り”技法を導入したことに由来するとある。3代目が沖家室に移住し、8代目の西村萬太郎は多くの漁師を束ねる唐津組の“大船頭”であったとある。
唐津の田島神社の石灯籠を訪問したが、明治12年1月建立の2基の銘の中には、鹿蔵の父や祖父の時代の“西村”や“八木(注)”があった。
(注) 鹿蔵は八木友次郎の娘・トワと結婚し八木姓となったが、移民後、米国の市民権を持った子供の成長などに伴い西村姓に復姓し、同時に絶家となっていた沖家室の八木家を畑野岩吉の子息の岩正氏に再興させ、現在に至る。泊清寺には、鹿蔵が次男の勇一(妻の従妹の祖父)名で建立した八木墓が存在する(現地の訪問で初めて知った)。
2 大分県の西村姓について
大分県には1,400人ほどの西村姓が存在するが、県都の大分市を除くと760人ほど(75%)が瀬戸内海を臨む県北の7市町村の分布している。
なかでも、沖家室島から65Km、面積7k㎡、800世帯という姫島村が200人と最も多く、島民の25%が西村姓である。沖家室島との古くからの関係を推量できるデータのように思える。
なお、古い話だが、厚生大臣、建設大臣、自民党副総裁などを歴任し、元首相の佐藤栄作や田中角栄のご意見番的存在であった西村英一は姫島の出身である。
3 一本釣り漁の九州などへの拡がりについて
宮本常一著作集などによると、元禄の大飢饉の際に、安下浦の網を借りて飢饉を凌いだ経験を踏まえ、“一本釣り漁”を導入し、農業から漁業主体の島に転換。その結果、一本釣り漁法の先進地として人口が増加し、“家室千軒”と呼ばれるまでになったとある。
著作の中に、次表(赤字は加筆)を発見したときは、ますます身近なものなった。
沖家室島の漁師は周辺のみでなく、塩飽諸島、豊後、下関、唐津、伊万里、対馬などへ出かけたとある中に、豊後組(大分)が保戸島を拠点に別府温泉などで売り捌いていたとある。
現在の保戸島は遠洋マグロの延縄漁業の基地となっているが(かつて、対馬のハイオ突き漁で繁栄、沖家室島と同じ“未来に残したい漁業漁村百選”)、近くの佐賀関は一本釣りの関サバ・関アジの産地として有名である。一本釣り漁がこのような形で拡がり、継がれていることを初めて知った。
残念なことに、11月18日の佐賀関の大火災で、約30人の漁師が被災し、さらに、県内外から人気の一本釣り用の釣り針や重りを製造していた老舗工場が全焼し、再開が危ぶまれている。
4 宮本常一著作集などによると、漁業以外にも、周防大島の人々が石工、大工、商業、浜子、船員などとして九州などに出稼ぎしていたことが分った。
(1) 久賀の石工が築造した“石積みの波止”が瀬戸内海の各地に残っており、明治4年の大分県の旧別府港も吉村伝助が築造にかかわっていたことを初めて知った。なお、宮島の一石造りの鳥居は久賀の福田市助の作、長州大工による神社などが山口県内や四国に多く残っている。
(2) 明治10年の西南戦争後の熊本の復興作業に、周防大島から何百人という人々が出稼ぎで行ったとある。
(3) 朝鮮、台湾、そしてハワイへ本格的に出稼ぎに行く前、対馬の浅藻にも、久賀の岩瀬萬助等が明治9年に進出し、本浦の柳原仁吉が明治10年頃に“仁吉納屋”を設置し(夫人が久賀の出身という縁)、唐津組の松尾氏(小倉納屋)へ引き継いだ後、山田重利氏によると、浅藻からハワイのホノルルに出稼ぎに行ったとある。
また、明治20~40年頃も、洲崎の素花助次郎や本浦の中田忠太郎などが対馬に進出し、200戸を超え繁盛したようである。
5 このような先輩たちの出稼ぎに次いで、沖家室や瀬戸内海の漁師たちがハワイに移民し、ハワイ漁業の近代化に貢献し、やがて砂糖キビ、パイナップル生産に次ぐ産業へ育てあげた歴史を知ることとなった。
経済的な課題から始まった出稼ぎであるが、その中でも、沖家室の漁師が中心となりハワイで漁業会社“SUISAN”を設立するに至った背景について調べてみたところ、宮本常一著作集20巻の“安下浦夜話”に、周防大島の沖家室と安下浦を比較しながら、明治以降の沖家室の繁栄の背景を分析していた。
(1) 安下浦は江戸時代から漁業独占権をもつ40戸ほどの漁業専門の村で(農業主体の安下庄村とは区別)、周防大島5浦うちで一番広い専用の漁場(お立浦)をもち、網漁で空前絶後の盛況で繁栄していたが、江戸末期には漁獲量が減少し、納税に苦労しながら明治を迎えた。
(2) 沖家室は、江戸中期まで40戸ほどの農業主体であったが、元禄10(1697)年の大飢饉のときに安下浦からイワシ網を5年間借りて飢饉を乗り越えた経験をもとに、藩の規制のない“一本釣り漁”を導入し、江戸末期に繁盛するようになった。
明治以降も、島周辺での稼ぎ少なくなれば、九州、朝鮮、台湾、ハワイに漁場を求め、沖家室は単なる漁民の島ではなく、商人や各種の職人など様々な人々が集まり、経済力もあり、出稼ぎや移民で培った活力や胆力をもち、進取的な志が満ち溢れていた。
(3) 明治以降、安下浦は近辺での網漁という権利を守り続け、移民は少ない。一方、沖家室はより良い漁場を常に求めてきた行動力や団結力が“出稼ぎから移民の歴史”を築いたと指摘している。
宮本常一著作集には、このような海の民の歴史が刻まれており、実に貴重な資料である。