きのう(4/18)は防府へ行ってきました。毛利博物館をまだ見ていなかったので、行ってきました。国の重要文化財に指定されている貴重な邸宅です。その話はまた追い追いとして、帰りには毛利藩の御舟手組があった三田尻港へ行ってみました。御舟手組とは毛利藩(長州藩)の海の警護を担当する部署、今でいうと海上保安庁のようなものでしょうか。
その玄関口が御舟倉といいまして、その跡地だけが今も残されています。かつては海に開かれていたでしょうけど、現在は埋め立てが進み住宅街の一角となっています。その海沿いは巨大な工場群が立ち並んでいます。現在の三田尻港の奥はまだ当時の面影が少し残っていました。漁協のある港は古い石垣が残されていました。漁業関係者以外は立禁区域になっていたので、外から写真を撮りました。
毛利藩の海の関所が西から赤間関(下関)→中ノ関(三田尻)→竈関(上関)→そして東の沖ノ家室関が藩の東の玄関口でした。沖家室島にも御舟倉があり、小早舟が置かれていました。
毛利藩の御舟手組の組頭を周防大島の村上家が務めていました。村上海賊の大将だった村上武吉が和田に居を構え、その長男だった元吉が関ヶ原の合戦の際に伊予の松前攻めで落命したため、家督を次男の景親が継ぎました。元吉の息子だった幼少の元武を景親が育て、御舟手組の組頭となりました。
当時、この沖家室島も藩の東の玄関口として御舟倉が置かれました。代官を石崎家の流れをくむ友澤家が御番所・舟番所の舟究役(ふなあらためやく)を務めました。友澤家はこの三田尻にも居を構えていたそうです。それがどのあたりだったか、藩の資料に残されているかもしれません。
沖家室島とも、とても関係の深い史跡です。
松本昭司