八木正共 様
ご無沙汰しております。お元気のことと思います。
今回投稿された、かむろ会ルーツ研究の柳原兼吉さんについて興味があるので、いろいろ調べてみましたが、ご親戚等は分かりませんでした。泊清寺編集の「かむろ復刻版1~3巻」には柳原兼吉さんの名前もありヒロでの商売繁盛の様子も伺えました。またグレゴリー柳原様は、かむろ柳原と河野家との繋がりもご興味があるようなので、以前私並みに調べたものを添付いたします。よろしかったら見てください。
柳原精一
沖家室柳原家は河野通任、能島村上水軍と縁があるので、河野道任よりたどって見た。河野通任は道有の三男道種の次男道任なり。今岡の名跡を継ぎ、今岡道任とも名乗った。 |
1334年 | (建武元年)中先代の乱(足利直義、護良(モリナガ)親王を暗殺) |
白龍城、赤龍岳で活躍 | |
通任は能島に本拠地を持っていた。通任は今岡と名乗り、村上前期水軍の当主村上義弘とは義兄弟で、村上水軍の副将を務めた。大三島甘崎城主で鹿島城(柳原の地)を造る。 | |
通任については「予章記」にのべられている。「予章記」は「今岡陽向軒」の日記を写している。「今岡陽向軒の手記」が「予章記」、「予陽河野家譜」に収録されている。 | |
1338年 | (延元3年)村上義弘は懐良(かねなが)親王(南朝)が |
九州遠征のため新居を設営した。 | |
1365年4月 | 風早群恵良城にて通任、義弘が通暁[通直]を救出し能美島奉送。 |
1365年5月 | 新居大島を退去して周防大島に移る。 |
1365年7月17日 | 通暁行一行は和田で舟揃えをして8月大宰府に参向。 |
通任、義弘は河野通暁を九州征西府へ護送した後、屋代島に帰ろうとしたが、屋代島は既に武家方大内氏によって占拠されて上陸できないので、豊後高田へ引き返した。その後、伊予水軍は九州で活躍を重ねた。 | |
1368年6月 | 道直(通暁)が征西府の許可を得て、故郷の伊予に帰国。 |
1370~1376年 | の間に村上義弘没。 |
義弘没後は後期村上となり副将の通任も追放される。 | |
前期村上家の後は、同じ村上氏(信濃の国)の師清が村上水軍の名跡を継いだ。 | |
師清の後は、能島、来島、因島 いわゆる三島(さんとう)村上水軍となる。 | |
1379年康歴元年 | (天授5年)11月6日 河野軍は足利義満の命により細川頼之を討ったが、 |
細川家に逆襲され敗れ、通尭、西園寺、通任ともども討ち死にした。 | |
※村上水軍については、森本 繁(実証歴史作家)「戦国水軍と村上一族」を参照した。 | |
河野家は通尭没後、本家と予州家に分かれる。 | |
1451~1481年 | 本家と予州家は度々本家争いを興す。予州家(反乱軍)の主力は来島、能島の村上水軍であった。 |
1481年 | 河野通春(予州家)病没。 |
1489年 | 柳原尚光(まさみつ)勅勘を蒙り河野に預けられる。(現柳原家の地) |
1500年 | 柳原尚光 鳥取へ(他の一族は怒和島に移動) |
1522年 | 通定(通任より5代目で鹿島城主)蓮如上人の6字の尊号を賜る。 |
蓮如上人を敬慕していた通定は、河野本家の家督争いを嘆き、城と領地を捨てて北条中内(中西内)に蟄居していた。 | |
1531年 | この頃より、1533年にかけて来島の通泰をめぐる河野家継嗣紛争あり。 |
1532年 | 上関で大島水軍と村上水軍が争う。 |
1541年 | 大内水軍、伊予風早郡中島に襲来。勿郡、村上、今岡ら各水軍にて撃退。 |
1555年 | 厳島合戦、三島村上水軍、毛利に加勢して陶水軍を壊滅。 |
1570年 | 通定、通秀(通定の子) 石山合戦で織田信長と戦う。 |
1573年 | 通秀出家する。 |
1573年 | 河野氏の家臣、石崎勘左衛門他が大島に渡島。 |
1579年 | 来島勢 柳原の地襲来(来島の村上通総、河野氏に背き、河野氏の所城を攻略) |
1580年 | 通秀 柳原の地に専光寺建立。 |
1585年 | 河野氏滅亡 |
道直自刃(秀吉軍に竹原にて敗れる)河野一族離散(姓名を変えて所々に潜匿し、残りは農、商となり、或いは武家奉仕して各某家を存して先祖の祭祀を奉じた。 | |
河野、伊予から大島に逃げ来る者多し。 | |
秀吉の命により能島村上氏、来島海峡より退去させられ、本拠地を竹原に移す。 | |
1600年9月18日 | 三津浜での刈屋畑の戦い |
加藤喜明が関ケ原に出陣した留守中、河野家の再興を謀った戦い。主力は能島村上水軍。加藤軍の奇襲を受け惨憺たる敗北を喫した。 | |
能島村上景親(武吉の子)、大島に移住。 | |
1601年 | 能島村上武吉、大島に移住(三原から安下庄に渡り和田に住んだ)。 |
1605年3月 | 通秀 松山城主加藤嘉明の招請により、寺基を柳原の地から松山市三津に |
移転する。本願寺より「定秀寺(じょうしゅうじ)」の寺号を賜る。 | |
1605年12月初旬 | 石崎勘左衛門 伊予興居島より、林(一時安本)半兵衛は温泉郡より |
一族及び協力者30名、7艘の船により、大島小泊村に停泊 | |
1606年1月20日 | 石崎(中村)勘左衛門、林(一時安本)半兵衛、沖家室に移り住む。 |
1626年頃 | 河野一族である柳原、古谷を迎える。 |
沖家室柳原家 | |
柳原四郎兵衛(河野四郎通任より11代の孫)、慶長年中(1596年~1614年)、故郷を出て行方不明。子息3人、女子2人あり | |
柳原久兵衛(柳原四郎兵衛の息男 本国は予州風早郡柳原村 慶長年中兄弟5人、母諸共、其の外一族多人数とともに屋代島(大島)に渡り、暫く漂泊し所々に住居する。その後11人は沖家室に渡る。以上は久衛門母よりの言い伝え。 | |
当時、長男久衛門は10才前後か、娘2人は安下庄村と船越村に嫁ぐ。他の息男一人は防州三輪に、もう一人は大島日見村に住んだ様だが詳細不明。 | |
1669年 | 久衛門母 亡くなる。 |
1882年 | 久衛門 亡くなる(93才)。 |
二代目は柳原太郎衛門(養子、妻は久衛門娘オハツ)安下庄川内村の人、本国風見郡先祖に因縁あると以て養子となる。 |