石丸弘様から洲崎の観音様に関するご質問がありました。 私の知る限りの情報をご提供します。
なお、この情報は私が図書館などで調べたもので、古文書などの一次資料で確認したものではありません。あくまで書物として世に出ているものに記載されている情報です。出典は全て記載しました。年代から、該当する友澤家の先祖を私が記載しました。
泊清寺は元は禅宗の草庵でしたが、寛文3年(1663年)に京都の知恩院の許しを得てその末寺となったことが記されています。その際上京したのが「友澤彦七先祖」と記され、これは初代惣右衛門徳昭のことを指します(山口縣寺院沿革史 全 可兒茂公編、1977年:風土注進案 大島郡宰判 十一 沖家室)。ただし、これは後世に記述されたものであり、当時の文献には上京したのは泊清寺中興開山の円隆上人本人と記載されているようです(泊清寺再建記、林端東著)。
釣鐘堂の撞鐘は、銘文から享保6年11月に二代惣右衛門政昭により寄附されたもので(防長寺社由来 第一巻、1982年)、風土注進案には「友澤彦七先代友澤惣右衛門寄附」と記載されています。
一方観音堂の半鐘は、「施主友沢惣右衛門」が貞享2年(1685年)に寄進したもので(防長寺社由来 第一巻)、これは初代惣右衛門徳昭のことです。また観音堂の行基作とされる聖観音菩薩像は、寛文年間に「友澤彦七祖先自佛なりしを庫裡に安置」されたものであり(山口縣寺院沿革史)、これも初代惣右衛門徳昭のことです。「東和町誌−資料編−第三巻 東和町の社寺文化財、1996年」によりますと、観音堂内陣正面の上に「霊厳庵・紫山慈岳」の横額が掲げられており、裏面に友沢惣兵衛尉が願主となり、慈岳禅師に揮毫を依頼した旨を泊清寺初代頓譽円隆和尚が認めている、とあります。この「惣兵衛尉」も初代惣右衛門徳昭のことです。さらに洲崎の地蔵堂の奉納額には「元禄八年友沢氏」とあり、これは1695年に初代惣右衛門徳昭が亡くなった年のものです。
以上の記載には誇張もあるかもしれませんが、洲崎の観音堂周辺の整備にも友澤家の開基である初代惣右衛門徳昭(二代石﨑勘左衛門の長男)の多大な貢献があったものと考えられます。観音堂墓地の最上段に沖家室友澤家(武士として毛利家に仕えたのではなく、沖家室に残った一族:私の母方の先祖)の墓所が存在すること、また洲崎に沖家室友澤家が邸宅を構えていたという事実も、その間接的な証拠になるのではないでしょうか。