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ルーツ研究

田中正人 

田中正人
興居島 郷土史編纂


沖家室島はルーツ

興居島 郷土史編纂 田中正人

沖家室島歴史(その2)についてお問い合わせします。                         2014年10月29日投稿

私は愛媛県松山市興居島の出身で、郷土史編纂に参加している「田中正人」(66歳)です。


貴会「かむろ会」のHPを見させて頂き、エッセーの中で郷土史家「西村季芳」先生の投稿を大変興味深く拝読させて頂きました。
伊予の河野家家臣で、興居島「明澤城」城主の:石﨑四郎三郎の子である「石﨑勘左衛門」は、関ヶ原の戦いに西軍として能島村上氏に属して戦いましたが敗れ、屋代島に退きました。
そして、屋代島から他の者たちと一緒に沖家室島に入島したようです。 勘左衛門は、四郎三郎の嫡男である「四郎左衛門」の弟になります。
興居島で石﨑四郎三郎は出家し「道閑」と号して、一族郎党はそのまま住みました。 江戸時代に入り、石﨑家は給地の禄により「庄屋」に任じられ、明治維新まで代々庄屋を務めました。
しかし、庄屋制度の廃止により墓地が荒らされ、現在その墓は残っておりません。 従って、四郎三郎の墓もなく、そのまま興居島で没したのか、又 他の地で没したのかが分かっていない状況です。
そこで、お伺いしたいことがあります。
西村季芳先生が寄稿の「沖家室島歴史」(その2)において、石﨑家先祖の墓地の写真が掲載されておりますが、以下の写真の右端の「無縫塔」が誰のものなのか気になっております。(仏門に入った後、石﨑四郎三郎も沖家室島に移住したのではないか?と。)

石崎家墓石

無縫塔は、仏門にいた人だけの独自の墓です。
もし何か分かるようでしたら、お教え願えれば大変有り難く思います。


(何か手がかりを御存じの方、少しでも関連する事を知っている方
投稿アドレスに投稿願います。投稿メール post@okikamuro.com) 

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