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ルーツ研究

屋代源三 

屋代 源三

周防大島郷土史研究家

沖家室島はルーツ

柳原兼吉について

 屋代源三    2025年01月19日投稿

柳原兼吉氏の情報を集めているとか、私なりのまとめてみました。


柳原兼吉について


彼の名は雑誌「かむろ」に何度も出てきてますから、ハワイ・ヒロで商売をしていました。


渡航日時はアラン青木氏の情報で正しいでしょう。柳原健吉氏のそれ以前のルーツは「改姓原戸籍」で幕末までわかります。それ以前は泊清寺の家別過去帳しかありません。通常、寺には時系列過去帳しかありませんが、泊清寺には家別も保管してあります。但し、江戸中期までしかないとのことでした。それ以前の資料を寺に保管して欲しいとかの要望があったようですが、後日談は聞いていません。


尚、柳原家の家紋は伊豫守護家河野家の別れを意味する「傍折敷縮三文字紋」です。本来は「折敷漢数字三文字紋」ですが江戸以降の分家は前者を使用することが多いです。


柳原兼吉は真珠湾攻撃まではハワイ・ヒロで順調に商売をしていましたが、日米開戦が起こるや1942年1月に多くの日系人と同様逮捕され、オアフ島ホノルルのサンドアイランド強制収容所に収容されました。しかし同年3月には日系人リーダー格と看做されたのかハワイのリーダー格グループの第二陣として米本土の強制収容所に送られました。 この第二陣は166人の一世の男子がほとんどでした。嫁のトメさんはハワイ収容所に残されたようです。米陸軍と司法省は家族をバラバラにして収容していました。


1942年3月 ~1942年4月までは兼吉はカルフォルニア州エンジェルアイランド強制収容所に入れられ、更に1942年4月~1942年5月まではオクラホマ州フォートシル強制収容所転住され、1942年6月~1943年6月まではルイジアナ州キャンプリビングストン強制収容所に更に転住させられ、1943年6月~1945年10月まではニューメキシコ州サンタフェ強制収容所に再転住させられました。


手許のサンタフェ日本人自治会(サンタフェ時報)発行の「収容人員名簿」によると、

『柳原 健吉 居住バラック NO.58 年齢      60歳 原籍      山口県大島郡家室西方村 米国住所   ハワイ・ヒロ 職業      商業 家族住所(収容所) 布哇(ハワイ)』 とあります。


ハワイへの帰還は1945年11月軍用兵員輸送船ヤーマス号にのり、他の抑留者450人とともにホノルルに到着したとあります。 柳原兼吉の息子、レイモンド・ヒロユキ・ヤナギハラは第二次世界大戦中に米軍に従軍したとありますので、兼吉は「No!No!Boy」ではなく、息子は米国に忠誠を誓ったものと思われます。米本土の日系人と違い、ハワイの日系人は財産没収をされていなかったらしく、戦後通常の生活に戻ることは難しくなかったとされます。


参考として柳原兼吉のサンタフェ強制収容所の集合写真を添付しましょう。前列左から二番目が柳原兼吉です。

 santafecamp


室町以前の河野は「カワノ・Kawano」と発音し江戸期以降は「コウノ・Kouno」と発音しますのでどちらが古い分家かがわかります。

屋代源三


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