今から76年も前の出来事です。日本中は未だ戦争の最中。私達兄弟、姉妹4人とお母さんが暗い家の中でひっそりと身を隠して生活していた。
ある日の事、雨戸をトントンと叩く音がしました。お母さんは敵(米軍)が攻めて来たと思い子供達と床下の芋倉に息を潜めていました。隙間から除くと、何とお父さんだった。驚くと共に、お父さんと再会出来た事に皆な大喜びでした。
それから何年たった事でしょう。食料事情も悪く、僅かの配給では育ち盛りの子供達ですから毎日が空腹との闘いでした。貧乏も極限に落ちた頃、もっと大変な悲劇が起きました。父は戦争出兵での食糧事情等、内地(日本)に帰ってからの極度の食べ物の不足で大国柱のお父さんが栄養失調に依って一級の障害者と成ったのです。
度重なる悲劇に未だ若かったお母さんの胸中は想像を絶する物がありました。それを見かねたお母さんのお父さん(柳原兼吉)、どちらかと云えば裕福な生活をしていたので、私のお母さんに戻って来いと再三に渡って説得に来たのです。しかし、私のお母さんは一級障害者の主人、子供達を置いて戻る事は出来ない。私が戻る時は灰になった時だとはっきり断ったのです。
その出来事を私は80才に成った今、あの時のあの決心をしてくれば“お母さん”有難うと感謝しています。
79才に成った私の女房が「お父さん(包徳)、私、今幸せよ」 云ってくれた言葉を聞き、私はもっともっと頑張って85才迄この仕事をしようと決心したのです。
金井包徳