最後の沖家室中学生活は、岡城の山の上からの通学でした。学校からは一番遠く、家室で一番標高の高い所からの通学でした。
朝の通学は、佐連から最終便(学校に間に合う)の生徒を乗せた瀬戸丸が灯台を過ぎると山の上から駆け下りて佐連の同級生(大村、川村君)達と一緒にトンネルをくぐり通学。昼食は家に帰って食べていたので、毎日山の途中の大久保君と一緒でした。家での昼食時間は7分から10分しかありません。それを過ぎると午後の授業に遅刻です、行は常に1人です。
思えば小学校も昼食は帰宅でしたが、小学5年生から給食が始まる。米軍支給の脱脂牛乳が配給されてこれを飲んでいて、細長いパンが主食でアルミ製の器におかずを少し乗っけた物です。 沖家室の一番貧乏な、物のない時代の最終章とも思われます。 町は、朝鮮戦争や東京オリンピックで高度成長を迎えていましたが、離島にはその恩恵が回っていませんでした。
さておき中学生活は、東京オリンピックの1年後で運動クラブが盛んでした。 沖家室中学はクラブとがあり、男女共に卓球部、テニス部、バレーボール部があり生徒はそのどれかに所属しています。 テニス部はちょっとハイカラさんが所属するクラブ、バレーボール部は、ヤンチャな野蛮人が所属するクラブ、卓球部は普通の人,常識人のクラブと云ったトコでしょうか? 人種が違うような人達の集団のように思いました。当時は運動するときは水は飲んではダメ? 夏には海で泳いではダメ? 何をやってもスパルタ教育、教師に失敗すれば拳骨を食らう日常でした。 現在の教育では大問題です。
授業内容は普通に、中学3年になると受験組と就職組に分かれて、授業を行うような所があり、教師の気分によって自由時間が多くなる。 受験組の勉強の邪魔になるから、就職組は外に出て(運動場)遊べ####? よく教師に反発して就職組と遊んでいて先生に後で怒られていた。
最後の沖家室中学校舎で学ぶ最後の悪ガキだったかも? 当時は反骨精神の者も沢山居た様に思うが私の記憶間違いかも。 ナニセ小さな島の人数、皆家族といった有様の特殊な島。
高校は、下松工業(山口県下松市)に通ったが入学して直ぐに教師に呼び出しされて、職員室で言われた事が、方言がきつくて話がワカラン?(通じない)。 沖家室で話していたことが日本本土に渡ると、まるっきり通じない。 標準語を喋れとの指摘に唖然とした。瀬戸の海を渡ると言葉も通じないかと、ビックリした思い出である。