okikamuro island fan club, 沖家室島ファンクラブ|Kamuro party かむろ会

山田重利

山田重利

  東京かむろ会名誉会長


私のかむろNo8 「母ハナの思い出」

私のかむろNo7 「農道を作るようになった訳」

私のかむろNo6 「「戦後家室での重利」

私のかむろNo5 「武田鉄工所時代」

私のかむろNo4 「爺さんの思い出」

私のかむろNo3 「石欅」

私のかむろNo2 「孤独」

私のかむろNo1 「生い立ち」

「流れ灌頂」

東京から故郷の沖家室のお墓詣り

泊清寺蝋燭立て・燭台顛末記

エッセー

私のかむろNo7 「農道を作るようになった訳」

山田重利                                             掲載日2012/03/20

(山田重利さんは2011/10/2に逝去されました、享年96歳。遺されたエッセーを掲載しています。)


2011年洲崎農道

戦争が終わって、海外からの引揚者と復員軍人、東京・大阪・各都市の戦災者の人が一挙に帰って来て、沖家室の島が、人で沈むかた思われた。  山田家でも、台湾から叔父の山田伊太郎、以下十八人が引揚げてきた。 叔父の伊太郎が「重利お前が本家の事と婆さんの面倒を良くみてくれたが、これからは俺がやるから」と叔父の伊太郎が言うてくれた。 やれやれこれで、川の端の本家の役を開放されると思った。 ところが夜中に、中山みち子伯母が「おーい重利早く降りてこい早く下りろ」と家の下の方で怒鳴っている。 夢うつつで慌てて起きて、川の端の山田の家に行くと台湾の叔父が亡くなって大騒ぎだ重利は本家の役目は解放されると思ったが、これから厄介な事に成るだろう。 昭和五年に叔父が台湾から帰って来た時には、債権者が「以前の借金を返さなければ、叔父を島から出さぬ、ましてや台湾へなど行かせるものか。」と騒がれて仕方なく、叔父の父の名義に成っている家と土地を競売する事になった。 爺さんは山田熊五郎を呼んで、「家と土地を競売しようと思う、値段の事は幾らになってもかまわぬから、熊五郎お前が落札して呉れ」と頼む。 叔父には部落の世話人の山田友太郎に石丸石松と西村文太郎と中山坂一がいるが爺さんが、「重利お前が競売をやれ、俺の元気で居る間に何でも経験させてやる。」 爺さんは「俺が後に控えて居ると思うな、小学生だが重利お前やってみろ。」 「うん、俺が競売をやるよ」伊太郎の家は場所が良いので、欲しい人が大勢居た。 やがて部落でも、金持ちの連中が家に集まる。 「重利が競売を二百円から始める。」 五百三十円から五百五十円では五円から三円刻みで上げて来た。それからは誰も値段を上げる者がない。 五百五十円と重利が叫んでも、誰も返事がかえってこない、爺さんと約束した山田熊五郎は、俺は知らんとばかり、他所をむいている。 幾ら叫べど、熊五郎は知らん顔、あれだけ確りと、爺さんと打ち合わせたのと話が違う、此れは困った他人の物になる、どうしようと思っていたら、山田熊五郎が、六百円と手を上げた。 他の人は、今迄五円、三円刻みで、上げて、やっと五百五十円に成ったのに、今になって五十円もいちどに上げられては、もう付いてゆけない、皆、静かになった。 重利は六百円で落札しますと宣言する。 六百円は信用組合から払い出して、山田熊五郎がお金を持って来た事にした。 爺さんが山田熊五郎にして債権者の代表者に「このお金は家屋敷を競売した金です。」と話をつけ叔父は台湾に行く事が出来た。 晩年に「山田熊五郎が一つ話に、爺さんはあの小学生の重利に家の競売をやらせた。やらせた、爺さんも、爺さんだが、重利も良くやった。」 集まった人達の誰一人こんな、子供を相手に出来るかと言って出て行く者は無かった。  爺さんが馬関組の大船頭で、船頭や大勢の船方と泊子(トマリコ)連中の世話をしていた頃の婆さんを思い出す。 重利は、柳井市の住友銀行、安田銀行(富士銀行)と信用組合、郵便貯金の事を任されて金の出し入れをしていた。 それは小学校三年生になったら、読み方の本に漢字が出てくるようになった。 爺さんが、「重利は漢字が読めるようになった。これからは金の出し入れを、お前がやれ」 山田熊五郎が水無瀬の家賃と小作料を纏めて持って来る、それも、記帳をしてくれと言う。 それからは、重利は小さな子供でも、後ろ立に爺さんを控え、川の端、山田家の立派な金庫番だ。 中山坂一が新しい船を造る時、爺さんが、重利、俺も年をとったので漁を坂一に連れて行って貰いたいと思う、信用組合に行き、お金を六百五十円出してくれと言われた。 それで中山坂一も船を新しく造る事が出来た。 爺さんは言う、「重利には皆ながお世話になったのに「重利が戦災で焼け出されたら皆なで馬鹿にする」と、泣いて悔しがる。 重利が見習いを終えて帰って来た。 爺さんが「家では月に二十円あれば生活が出来るので重利お前が毎月十円ずつ送ってくれたら、あと十円は水無瀬の島からの家賃と貯金の利子で楽に暮らすことが出来るんだが」と言う。 重利は「俺が毎月二十円ずつ送るから楽に暮らせ」と言った。 爺さんは「二十円でなくて、十円でいいよ」「無理をして体を壊されては困る。体だけは何よりも大切にしてくれ」と言う。 それから爺さんは、重利がお金を送ってくるのをとっても、楽しみにして待っていた。いつもより二日も遅れると、風邪でも引いたか、病気をして寝ているのではないか、と心配するから、婆さんは、「なにかの都合で遅くなる事もあるだろうよ」、「何も無ければよいがと・・・・」爺さんがつぶやく。 爺さん曰く、「こと金のことに関しては約束した事の半分出来れば上等で全部出来れば上の上。それを重利は約束の倍の四十円以上を毎月送って来る。重利は偉い。」 「俺が見込んで育てただけの事はある。」 重利が送ってくれる、お金で税金も納めて生活も出来て楽な暮らしが出来て、爺さんがとても喜んだ。 重利が子供のころ、叔父達から、爺婆育ては三文下がりと言われて爺さんが、どんなに悔しがっていたか、その重利が「あんなに爺さんを喜ばせた、その重利の分が少ない」と婆さんは怒る。 重利は言う「いいじゃないか、どうせ。 爺さんと婆さんの子供や、孫のやる事だ。 あのやり方で皆が仲良くなれるのなら、重利の分が少なくても良いよ。」 引揚者の中には家も畠も無い者が多い、あの方達の事思えば重利なんかまだ幸せで有り難い方だ。 「婆さんあんたの事は俺が生きている限り心配をするな」と重利が言ったら、婆さんはとても喜んで「お前のような者が後二人居て呉れたらうまくゆくのになあ。」 「仕方無いよ戦争に負けたのだから。」 婆さん、以前の様に重利が立ち直ってみせるから、それまで長生きをしておくれ」と私は婆さんに誓った。 それから住まいの移動が始まる。 岡城の家が、父の名義になっているので引っ越す事になった。 婆さんも一緒に行こうよ、と言うと、「俺はお前の所には行かぬ。俺がお前の所に行くと又お前たちが皆から責められる」と言って、ついて来ない。  婆さんは雨の降る時は、雨の漏らない所へ逃げ回って寝ている。 たまりかねて重利が又「婆さん俺の所なら雨が漏らないのだから俺の所へ行こうよ」といくら言っても聞かない、子供や孫は雨の漏らない所に住んで、「なんで、どうして」婆さんだけが雨の漏る所に住まなければならん。 爺さんがあの、海の荒い玄界灘を命がけで働いたのは誰のためだった。 「なんで婆さんが、雨の漏る家に住む、目の前には雨の漏らない家が在るではないか。 雨の降る時位は俺はここに入ると、入り込んでゆけ」と言うと婆さんは「そんなことをしたら必ずその仕返しをうけて困ることになる。」 或る日、婆さん二、三日家に来ないか、弥生も婆さんが来たら喜ぶからと言うと、それならと言って、山の近くの重利の家に来る事になる。 久し振りに、婆さんを背負って、余りにも軽いのみ驚いた。啄木の詩の通り、余りにも軽きに泣きて三歩あゆめず。 重利は母と九か月で別れて、それからは、重利の為にあの気位の高い婆さんが近所の伯母さんに頭を下げて貰い乳をして、育てて呉れたのに、こんなに軽くなってどんなにか、苦労をかけたことか、それなのに、何もしてあげることもできない、何れは島を出て行くにしても婆さんの死に水だけは取って出たい。 それにしても、島を出るまでに何か思い出になる物を残して置きたいが、何か無いか。上の家に移ってから、上り下がりする石段があちらこちらと崩れて歩きづらい、戦争で負傷した眼が悪いだけでなくて、これは道が悪いのだ。 これを何とかしなければと思う。 そうだ、道だこれだ。 この道だ。 これならば人の住でる限り、必要であり人の為、世の為に成る。 早速、木村良道君に話をする。 僕も考えていた所だ。 それで山根政雄、石丸金重、木村良道、山田重利四人で打ち合わせをする。 先ずセメントを手に入れるには如何したらよいか相談した。 これは役場に話をするのが一番ではないか。 そうだおい「金重お前は役場に行って居るのだからセメントをどうしたら手に入れる事が出来るか聞いてみろよ」「よし聞いてみる」と話は決まった。 或る日、金重がセメントは配給だが、農道という事でなら配給があり、尚、工事費は九割の補助が貰える事が判った。 そうなると岡城だけの問題では済まない、洲崎部落全部の問題だ。 部落会長柳原利夫さんの所へ四人で相談にゆく。 部落会長は、「それは大変な事業だ部落大会を開こう」と話が決まる。 それから、部落大会が開かれた。 大会では、発起人の山田重利が主旨と説明に立ち、「皆さんもご承知の通り、道路の石段が至る所で崩れて、とても歩くのに不自由で困る。改造したいのだが、改造をしても宜しいでしょうか?」 道路を、改造する事は賛成だが、金を出す事は反対だ。となかなか話はまとまらない。 発起人の山田重利が発言をもとめて「結論は道路を作る事にある」が「部落からは一円も金を出さなくて良いのなら、道路を改造する事に賛成ですね」と念を押すと、「部落からは金を出さないですむのなら道路は改造をしても良い」と決まった。  発起人の山田重利は再度発言を求めて「条件があります、部落から金を出さない代わりに刈山城、岡城の一、岡城の二、鼻城と各地区の部落が交代で勤労奉仕に、小学生以上男女を問わず家一軒に、一人ずつ人を出して欲しい」と言うと、全員賛成で承認された。 それから次のように委員を編成する。   委員長   大谷 勘次郎   副委員長 山根 政雄      委員 木村 良道          大谷 清一          川本 与助 やがて白木村役場の人と道路の測量が始まり、委員は立ち会いながら手伝いをする。 スコップや、ざる、の機材も仕入れて、セメントも配給を受け、バラスや砂は横撫や戸の浦と言う場所で採り、山根政雄さんと船に積んで運んだ。 作業も順調に進んで、設計では溝の両側と上と下を箱のようにセメントで塗る事になっていたが、両側の壁は石垣でとても頑丈に出来ているので、塗らないでも大丈夫と皆で話を決めた。 さてそのことで、後にセメントが足りなくなり、それが大きな問題の原因となった。 その時は夢中で一生懸命だったので、これで少しでもセメントを節約出来ると思った。 作業が進み各部落より交代で人が集まり、毎日作業日誌を作る。 ところが、上の井戸の所まで塗って来たら、セメントが足りなくなった。  溝の両側を塗らなかったから余っても足りなくなるとは、夢にも思ってみなかったが現実はセメントが足りない。 砂とバラスの割合でセメントを多く使い過ぎたのか、とにかく足りない。 委員長の大谷勘次郎さんに相談するが、話にならん。 山根さんに、もちかけたがセメントだけは、どうにもならんと言う。 道は壊した儘で、今更セメントが無いからと途中で投げ出すことも島から逃げ出す事も出来ない、困った。 セメントが無いと、道が出来ない。  委員会を開いて相談しても、セメントだけは、と誰も良い知恵と話が出ない。 とにかく役場に行って設計者に何と言われようと、実情を話して何とかセメントを貰える方法をお願いしようと話は決まる。 それも委員の中で役場へ交渉に行ってやると言う者がいない。  この話を言いだした山田が役場へ行かざるを得ない、役場は隣の部落で船に乗って行く白木村役場(現在の東和町)に行き、設計者に実情を話した。 設計者もやはり設計では溝の上下と両側にセメントを塗る事にしているのに、貴方たちは上下しかセメントを塗っていない。 両側に塗るセメントはどうしたんですか、と問い詰められた。 素人の事だから配合を間違えた位に頭の中で考えた、だがセメントは足りない。 設計の方では両側を塗らないのだからセメントは余っても足りなくなる筈は無いと、如何にも我々がセメントを隠したか、ごまかしたのではないかと言わんばかりだ。 理屈の上では全く其の通りだ。 だがそうでは無い、両側を塗らないで少しでもセメントを節約して丈夫な道路を作ろうと思っただけです、セメントはしっかりと管理して一握りも誤魔化してはいません。 「では両側も塗らないでどうして足りなくなるんですか」と、また同じ質問をくりかえすセメントが無くては、戦争で弾が無いようなもので戦にならん。 困った、困った、全く困った。 こんなことにはるとは、考えても、みなかったのに、どうしたらよいだろう?このまま空手で沖家室の島にどんな顔をして帰る事ができようか。 途中の船から海に飛び込む位は何でも無いが、道の事はどうする。 壊した儘では済まない。 弱って困り果てた。  こんな時、あの頭の良い爺さんがいてくれたなら、相談出来たのに、どうしたらいい「爺さん助けて呉れよ、頼むよ」と眼を瞑って一生懸命に祈りながら、ふと図面を見ると、「あっそうだ、測量に立ち合った時の事を思い出した」測量する時、斜面の所にポールを真っ直ぐに立てて直線に測り、又曲がった道の所は中心で見通して測った。 直線と斜めでは長さの違う事は毎日の仕事で分かりきった事だ。 設計者に測量に立ち会った時に、ああして測ったですね、と設計者に話す。 彼も「あっ、しまった測量のミスでした。」と、即座に認めて呉れて、白木中学校を建てる為に使用する、セメントで、五十キロ入りを十五俵まわして貰える事に成った。本当に泣きたくなるほどに嬉しかった。 私欲を離れて部落の為と云う至誠が神に通じたか、爺さんが助けて呉れたのか先祖の加護か、とにかく、セメントが手に入るようになった。 そのことを委員会で報告したら、よかった、よかった、と大いに皆で、喜んだ。 ある日山口県より土木課長が道路や工事の経過の途中を見たいと島に来られた。 会場は、岡弘セツコさんの二階に部落会長柳原利夫や、委員が集まった。 課長の話では、道が急坂で上がる事が困難に成るような所は車が上下出来る事を条件に階段を作ってもよいと、言う、岡田の横の道路と井戸の上は急坂だから、角の無い階段を作ったらと、山田が主張したが、皆と意見があわずに今の様な道路と成った。 (尚、現在の道路は平成になって作り替えた。) 車が通れる道幅が二メートル以上ないと農道として認めて貰えない、九割の補助金も貰えなくなる。 それで山の上の松原の方まで両側の畠を削りとることになり、ダイツボ(肥料を溜める大きな穴壺)も埋めるのでそれぞれの家にゆき、了解を取る。 ところが畠の方は削り取る時も、その途中も全く誰も気がつかないまま、夢中になって畠を削り取った。 もう殆ど完成した頃になって、山田は地主に無断で土地を削り取った事に気が付いた。 是は大変一大事だ、大失敗である。 委員に話をする前に、一番多く畠を削り取った石丸金重に泣きつく事にした。 石丸金重の所に行き、困った事ができた、一つ相談に乗って呉れと話す、重利、改まって何事か、実は他の委員には内緒だがもう直ぐ道は完成するが大事な事を忘れて居た。 「それは石丸金重と田坂坂太郎と大谷半二郎の畠を無断で削りとった事だ、中でもお前の所、石丸が一番多く削り取ったが、何とか話にならんか」 「その事か今更道も出来上がった事だ。それが人の通る道で、人の為、世の中の為になる。」 従兄弟の重利が一円の儲けもせず、一生懸命に皆の為にやって出来た事だ。 「石丸の畠は部落に寄付をするから心配するな。」 有り難うと言って帰る。  やれやれこれで一軒は話がついた。それから委員会で話を持ち出す、委員の連中もそうだ、他所の畠を黙って削り取った事に気が付いた。 今迄、地主の方はおとなしく、なんとも苦情も無くして頂き、お蔭で道が出来た。 それにしても、これは困った、知らぬ存ぜぬでは事が済まん。 とにかく、一番多く畠を削り取った石丸金重さんの所へ話をしに行く事になる。 古谷房一、林松太郎、山根政雄、山田重利、四人で石丸を訪ねた。 部落の道を作る事とはいえ、無断で畠を削り取った事をお詫びする。 石丸も貴方がたが、無報酬で部落の為に一生懸命になって造られた道は、皆で通り幸せになる繋がる道です。 石丸の畠がお役に立つのなら、先祖も許して呉れると思いますから、部落に寄付をします。 委員の方も、お言葉に甘えて畠の寄付を有り難く受けることになる。  次の多くの畠を削った、田坂坂太郎さんの家に行く、話しは畠を無断で削り取って、道を広げたことを謝り、何とか穏便に済ませて欲しい、とお願いする。 田坂は「泊家の親父(山田重利)のこと」に「石丸ではどんな話になったのか」教えてほしいと言うので、「石丸と田坂とでは状況も異なるので、田坂坂太郎さんとしての話にしてほしい」と、田坂は泊屋の親父(重利の事)に来て頼まれては、何とも言えない様子であった。 「石丸の方はどうだったのか、教えて呉れ」とせがまれ、山田は泊屋の話ではなくて、部落での話で来ているのだからと話したが、とうとう根負けしたので、実は、石丸では寄付をして貰ったと云うと、早く言って呉れれば良かった。「田坂でも喜んで寄付をさせて下さい。」 次に大伴に行き、やはり畠を寄付して貰い畠の事は無事に解決した。 此れも一重に委員の皆さんが部落の為と一生懸命に働いて下さったからの事と思います。 土地の少ない畠ではあるが、いざと云う時は部落の為なら一致協力して、ことに当たり、たとえ先祖から受け継いだ土地でも、部落の為と世のお役に立つのなら喜んで差し出すのが皆の先祖から引き継がれてきた、沖家室の尊い遺産では無いだろうか。 有り難いことで有り、沖家室の島に生まれた者の幸福であり、誇りである。 いろいろな事があったが、やっと終わった。 やれやれ、委員の皆さん本当にご苦労さんでした。有り難うございました。 道路も完成して、後は検査を受け、完成式を待つばかりとなる。 同級生の古谷仲二郎君と九州の五島方面行きの、漁期も迫り準備に忙しい。 そうして、今日は出船だ。(仲二郎君の事は別に書く)船を出そうとしている所へ部落会長の柳原利夫さんが来て、明日は農道の完成式で、山口の県庁からも来る。九州へ行かれては困る。二日程出船を延ばして呉れと言われた。 山田は「柳原さん農道は出来上がっている。山田がいなくても完成式はできるから、後の事はお願いします。」と言って出船した。 後で、部落の人が勤労奉仕で働いた人件費は、県より補助金が出た時、皆さんより寄付をしてもらい、委員も全員が部落に寄付をする事にした。 部落に金が出来たので、その後セメントが自由に買えるようになってから、洲崎の部落は小さな路地迄コンクリートの道となった。 洲崎の部落では、坂ではあるが、石段が無いので上がり下がりが、楽に成った。 暮れも押し迫り、寒い夜中に火事があった。 江倉の竈の燃え残りが、火元だった。 真っ暗闇で足元が見えなかったが、石段が無いのでホースを引っ張ったり、バケツを運ぶのが、足元に気を取られずに、動作が機敏に出来て、早く火を消す事が出来た。 大火事にならなかったのは、この道が途中迄、出来上がっていたからだと皆で喜んだ。 よかった、よかった。                        山田重利 思い出の作終わり。                        印刷2000年3月24日22時22分

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