okikamuro island fan club, 沖家室島ファンクラブ|Kamuro party かむろ会

山田重利

山田重利

  東京かむろ会名誉会長


私のかむろNo8 「母ハナの思い出」

私のかむろNo7 「農道を作るようになった訳」

私のかむろNo6 「「戦後家室での重利」

私のかむろNo5 「武田鉄工所時代」

私のかむろNo4 「爺さんの思い出」

私のかむろNo3 「石欅」

私のかむろNo2 「孤独」

私のかむろNo1 「生い立ち」

「流れ灌頂」

東京から故郷の沖家室のお墓詣り

泊清寺蝋燭立て・燭台顛末記

エッセー

私のかむろNo8 「母ハナの思い出(重利の母)」

山田重利                                             掲載日2012/03/20

(山田重利さんは2011/10/2に逝去されました、享年96歳。遺されたエッセーを掲載しています。)


夕日

 母ハナは明治二十年「1895年」青木伊助とナホの二女として生まれる。大正五年「1916年11月2日」山田甚吉と婚姻届をしている。  重利が生まれて、翌日に山田へ入籍しているが、重利が生まれる以前から甚吉とハナは同居していたと思う。  どうしても気になるので、1996年7月14日12時54分、ハワイ、ホノルルの叔父「青木正直」に電話で確かめたら、重利が生まれた時に、山田松蔵じいさんが、将来、俺の帯から上に上がる事の出来るのはこの子だろうと、躍り上がって喜んでいた事を、今でも良く覚えている。 ハナと正直が山田家を出る迄は、甚吉とハナと正直と重利と四人で暮らしていたが、重利が生まれて九か月目頃、重利を山田に残してハナと正直が山田家を出た。 松蔵じいさんとハル婆さんは、ハナが重利を置いて出た事では、一言も愚痴は聞いた事は無いが、どんなにか苦労した事か? 今でも胸が痛む。 母ハナが重利を連れて出ると言っても、祖父松蔵じいさんが、おそらく重利を離さなかっただろう? 孫は幾人も居たが、重利が生まれてから、誰よりも、彼よりも重利が一番の気に入りで可愛かった。  母ハナに伯母が四人か五人いた。 母の妹(クマ)の話では、母の姉(キク)の看病と弟(正直)の為に山田を出されたとか? 山田家の叔母の話では、出て行ったとか? 母ハナが山田家を出る前(1911年1月16日)に姉(キク)は亡くなっているから母は姉(キク)の看病の為に山田家を出たのではない。 キクが亡くなって保険金の二百円がはいった。 当時では大変な金額だ、その金の事で何かあったのではないか? 今となっては、確かめる事も出来ない。  青木家は代々、医者の家柄で、母(ハナ)は(正直)を医者にする積りだった。 それで自分が病気になっても医者にもかからずに亡くなった。 母(ハナ)が死んで、葬式のときに雨が降って居た。 火葬場でお母さん火をつけるよと言った事を覚えている。 子供心にも火を付けて、母を焼くことがどんなに無残な事か本能的に判っていたのか、覚えている。 その事を叔母の中山みち子に話したら、笑って小さい子供だった重利が、判る筈がない。 それでも重利は覚えているつもりだ。  祖母(ハル)は重利の物はなんでも、大切に残していたが。 東京の空襲で焼けだされ島にかえった。 着る物も無い時、祖母がこの着物は重利が、宮参りに青木からもらった羽織で今まで大切に仕舞って置いたが、この際だから役に立てたらと、出してくれた。 よく見ると、はっきり、雨に濡れた後が有った。 やっぱり母の葬式の時は雨だったのか。  ある日、中山の叔母に、青木家のどの墓にお母さんの骨が入って居るか判らなくなった教えてくれと、頼んで教えてもらった。 その墓が何となく違うような気がするので間違いないねと念を押したら。 叔母は念を押されると、自信がない。 それでも母の葬式に叔母さんもいったんだろう、と言ったら、お前(重利)のお母さんの葬式には行かなかった。 それでは叔母さんが教えて呉れた、お母さんの墓も当てにならんね。 そう言われても仕方がない。  毎年、お盆には山口県大島郡東和町沖家室に帰っているが、墓場で従姉妹の青木シズコに、恥ずかしいが、お母さんの骨の入った墓がどれか、判らなくなった教えて呉れと頼んだ。 シズコは母から聞いたので、間違いはない。  この墓に重利のお母さんの骨が入って居ると教えて呉れたのでやっと自信がついた。 母の入って居る墓は、青木家の男は独身で女は嫁にも行かず、嫁に行っても出戻りで、母のように青木家に帰って、亡くなった者の墓が並んでいる。 その墓の一つにお母さんの骨が入って居る。  思えば、今迄、母に墓も建てて上げる事も無く、又何にも作って上げないで過ごしてきたが何か造ってあげたい。  母に、此れは重利が作ったと言われる物が作れたらと、思いながら、お墓の前で手を合わせて拝んだ。 目の前に黒く錆びた鉄の、パイプの線香立てと、花立てがあるそうだ。これを作り替えて上げよう。  東京の会社に帰り、工場で得意の旋盤を使って、ステンレスのパイプで造った。 それから後に高尾山の東京霊園の墓地5平米の土地に墓を建てた。  (1988年)昭和六十三年九月五日、山口県大島郡東和町沖家室で山田家の墓から(甚吉)重利の父の分骨を取り、青木家の墓から母の分骨を取り、父と母を七十三年ぶりに一緒にした。 そのあと青木家と山田家の親戚が、泊清寺にお参りして供養をする。 母は生前に自分が死んでも山田の墓には骨は入れないで呉れと言って居たと聞いたが。 一人息子の重利が、東京で新しく建てた墓に、父母の骨を迎えて供養した。  父母も喜んでいる事だろう山口県大島郡東和町沖家室、中山の叔母には、いろいろと、言われて、石丸金重、夫妻、山田徳雄夫妻、青木シズコ、義高さんには特別にお世話になり、親戚、近所の皆さんのお蔭で盛大に供養ができました。  皆様有り難うございました。  墓の事は、又別の先祖の会で書きます。                      終わり。 重利                      1999年7月22日19時33分

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