okikamuro island fan club, 沖家室島ファンクラブ|Kamuro party かむろ会

山田重利

山田重利

  東京かむろ会名誉会長


私のかむろNo8 「母ハナの思い出」

私のかむろNo7 「農道を作るようになった訳」

私のかむろNo6 「「戦後家室での重利」

私のかむろNo5 「武田鉄工所時代」

私のかむろNo4 「爺さんの思い出」

私のかむろNo3 「石欅」

私のかむろNo2 「孤独」

私のかむろNo1 「生い立ち」

「流れ灌頂」

東京から故郷の沖家室のお墓詣り

泊清寺蝋燭立て・燭台顛末記

エッセー

私のかむろNo3 「石欅」

山田重利                                             掲載日2012/01/22

(山田重利さんは2011/10/2に逝去されました、享年96歳。遺されたエッセーを掲載しています。)


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 一九四一年、大東亜戦争が始まって間もなく、昭和十六年十二月二十日頃「山田重利」が戦争で負傷し、除隊した頃の事。  お観音様にお参りした。上の石段から十五段位下の、降りたところに踊り場がある。 その側の崖に大きな石欅の木が一本と樫の木が二本あり、それが海の方に延びて居た。  その木を見た途端・・・重利の頭に、さぁっと閃いた。この三本の木が大きくなって倒れたらどうなるか? 海の方に倒れても、山の方には倒れない。若しこの三本の木が海の方に倒れたらと思ったら、体中の血も無くなるのは無いかと、思えるほど寒く成った。 下の金井茂平さんの家も倉も、全壊は間違いない。そうなったら大変だ、今のうちに此の木を伐って置こう。  先祖が重利にこの木を切れと言う知らせだ。よし伐ることにする。それから、金井茂平さんに、この考えを話す。  金井さんは「重利さん、それはとても善い事に気がつかれた平素は見慣れているから、あの木が有る事さえ思った事がない。」 「重利さんが教えてくれなければ、何時の日かあの木が倒れて、金井の家も倉も潰れるところだった。よくぞ気がついてくれた有り難う。」 「丁度よかった今、小積の部落から樵(キコリ)の人が来て居るから、お願いして上げる。」 それから、泊子の連中に集まって貰い、話をした。今日来て貰ったのは、先日お観音様にお参りした時、気がついたが、あの大きな三本の木を今のうちに伐ろうと思う、いまの内なら何とか伐る事が出来るが、若しくずれたら、下の金井さんの家も倉も潰れる。 そうなっては困るから皆さんにお願いして切り倒す積りです。金井さんには話をして、小積の樵の人を頼む事に成っています。 やがて木を伐る事になり、樫木の二本は山の方へ倒れて旨くいった。次に大きい石欅の木も、山の方を向いて倒れだした、やったぁと思ったら途端に、今度は反対の海の方に向いて倒れだした。わぁこれは大変・・・西村文太郎と中山坂市と重利の三人は山側の高台にある大きな木の根株にロープを二回巻きつけて止めたが、手の皮がむけてとても、とめることが出来ない。お念仏の南無阿弥陀仏と念じても、効かないのでロープを放す。  別組は崖の上でロープを引っ張って居たが、樵の方は責任を感じて手を放さなかった其の為に崖からロープと共に引きずり込まれて、意識不明となる。 郵便局からは飛んで来て、何をしている電線を切って。下からは金井の奥さんが飛び上がってきて、金井の家は、滅茶苦茶に壊れたと、怒鳴りつけられた。 郵便局も金井さんもすまないが、一寸待って呉れ樵の方が倒れている。何よりも人命が優先だと言って病院に人を行かす。次に郵便局の人が、この大東亜戦争の最中に通信がどれだけ大切か判らんか。こんな所の木を伐る時は届け出をして伐るんだ。 余りぐずぐずと言うから。何を言うんだ、そういう暇が有るなら復旧を急げ話は後だ。 費用が幾ら掛かるか分からんが山田の全財産を掛けてもよい、とにかく作業を急げ。郵便局員も重利の意気込みに呑まれて、はいわかりましたと飛んで帰る。 次に金井さんの家に行くガラスが三枚割れていたが謝ってから後で直す事で話をする。樵の人も、気絶だけで済み他に異常がなくて良かった。石欅の木も、皆が一生懸命になって下に倒れるのを防いだお蔭で横に倒れたから、大きな被害が無くて済んだ。やれやれ。 郵便局員が来ての話では、こんな場所の木を伐る時は届を出して伐るのだ。黙って伐るからこんな事になり電線を切ってしまう、と叱られた。  重利は聞く「それでは、台風で木が倒れて電線を切ったら、台風に文句を言いますか貴方の話を聞いていると、台風に文句は言わないで、山主の所に行って来る」のではないか、あの大きな木をあの儘にしていたら何れ何時か倒れる。それを防ぐ積りでやった事が、こうゆう事になった。すみませんと謝る。 郵便局員も善意でやられた事でなったのだから、仕方ない善処します。 お観音様とお墓えお参りして石段を上がり下りして通る度に思い出す。あの時に木を伐って於いて良かった。 後年、台風で大雨が降り山が崩れたが、下の金井さん家も倉も全壊しないですんだ。 今となっては、大木が有った事さえも知る人が少なくなった。川の端山田家の事も其処まで先のことを思う者もいない。 石欅の木が有った上に小さな畑を婆さんが野菜を作っていた、重利は引き継いで作る。ある日、叔母が俺の畑だと言って作っていた野菜を引き抜いて畠を取り上げた。叔母の畑では無いのだが、重利もそれが無ければ困る訳でもないので放任した。 ところが或る年、台風で山が崩れた。先に書いたように、石欅も樫木の大木が無かったので、金井さんの家も、倉も被害がなくてすんだ。 それでも「金井保子」若い奥さんが、うえの山は重利さんの山だそうですね、と言うから。知りませんよ、文句があるようでしたら、叔母に言って下さい。奥さんは、叔母の家に行かれて怒鳴り込まれた事だろうが、重利の知らぬこと。 戦後は食糧難で東和町沖家室の島は台湾、満州、朝鮮の引き揚げ者に東京、大阪、の都会の焼け出されの人で寝る所も無く大変だった。 それでも重利には婆さんの作って居た畑があり、その上、山田光圀の婆さんの作って居た畑は、松蔵爺さんが、重利がやがて沖家室に帰ってきて、畑をつくると云ったら重利にその畑を作らせて呉れと、爺さんから言われている、作るように成ったら、何時でも返す、光圀の婆さんが言って居た。  やっぱり「松蔵爺さん」は重利を守ってくれたと思う。 今頃になって、爺さんの事をいろいろと、夢に見る、学校を卒業して、水無瀬の土地を見に行って、松の木の回りの草刈りをした、草が松の木より髙く成ると、松の木は枯れるとか、重利良く見ておけ、あの海岸の砂浜から、上の松の木が三段ある所までが家のだ、スクビにも八段有る、その外、北浦にも有ると云った言葉が今もはっきり耳に残る。             印刷2000年10月10日20時1分

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