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ルーツ研究

山田重利

山田重利

  元東京かむろ会会長


山田重利・西村季芳と先祖の足跡を訪ねて-8

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沖家室島はルーツ

山田重利・西村季芳と先祖の足跡を訪ねて-3

                            山田 重利 2013年11月28日 投稿
(山田重利氏は2011/10/2に逝去されました、享年96歳。)

沖家室の蛭子神社にある石碑は馬関組船頭、船子「石段の寄付人名」  山田 弥助、外五十四人の名が彫ってあるが、(明治三十二年八月)となって居る。
石段を作ったのは、馬関組の人達であり間違われる事が無いようにしたい。
玉垣に彫ってある名前は、玉垣だけを作った人の名前で昭和十五年に作った。 その頃、馬関組は飛ぶ鳥を落とすと言う位威勢が良かった。
お盆がすんで、家室を出て下関の沖で漁をして十月のお祭りに下関から家室に帰り、又、下関の漁場に出て行かねばならない。
それでは往復の日数が無駄になる。 馬関組はお盆の後、芝居を一週間行い翌日からお祭りで御神輿を担いだり、相撲をとったり、漕船大会があり、屋台の店も沢山出て、賑やかだった。
お祭りが済んで、馬関組が大船頭の船を先頭に日の丸や大漁旗、船印旗を船一杯に張って、ヨイショ、ヨイショと、掛け声も勇ましく、出発した。
浜辺で見送る家族が「無事で帰って来いよう。」と叫んで居た声が今も耳に残る。
あの光景は壮観で賑やかであった。 重利は子供であったが当時の事が、眼に残っている。 あの頃が懐かしい。 今の沖家室ではとても、想像がつかないことである。
又、別の確実なる話に(大谷武雄さん 家室在住)に依れば島の青年団員が八十人位居たがが、約半数の四十人位の若者が、台湾、高雄に出稼ぎに行くので十月では若者が居なくてお祭りが出来ない、それでお盆の後にお祭りをやる事になった。 これが真実のようだ。
朝鮮組の船は八丁櫓の船で、山田が子供の頃、舵の穴に出入りが出来た。(ロープで舵の穴から、降ろされた事を覚えて居る。)
戦後、山田が農道を作った時も、道を作る事に夢中に成り、個人の畑を無断で削り道を広げた事があった。 世話人が、畑の持ち主、個人、個人に謝りに行ったら、持ち主それぞれの方が「ご先祖様から譲って頂いた土地でも部落の人が通る道で、幸せに繋がる道だから先祖様も許して呉れると思います、寄附をさせて貰います。」と答えてくれた。 部落の事と成ると、個人より部落の為を優先し一致団結して事に当たり協力する。
「此れが、馬関組の時代よりも古くから引き継がれた良き伝統であり沖家室の長所である。」
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