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ルーツ研究

松本 昭司 

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沖家室島はルーツ

蛭子神社の秋祭り

                                              松本昭司    2014年10月18日投稿

掲示板に「夜渡の祭」とありますが、前夜祭をヨド(夜渡)と言います。辞典を引くと「夜渡し(よどおし)」という意味があるようです。
じゃあ、沖家室の蛭子(えびす)神社がいつ どこから どのようにして祀られてきたのかをちょっと調べてみました。
沖家室島掲示版  古い書物に『防長風土注進案(以下注進案)』というのがあります。これは、毛利藩主 敬親が村田清風を起用して藩政改革に当らせましたが、その途上に作成した、防長二州本藩領域全町村の、沿革地理、産業、民俗、寺社、文化などの実態調査書で、天保十二年(1841)に出されています。現存するもっとも古く正確な資料です。
これによりますと、「蛭子神、壱社、在洲崎鼻城ヶ崎前村に、祭神、壱座、蛭子命、下田八幡宮神主、下田河内守抱」(えびすのかみ、いちしゃ、ざい すさき はなじょうがさき まえそんに、さいしん、いちざ、ひるこのみこと、したたはちまんぐうかんぬし、したたかわちのかみ おかかえ)
現在は本浦にあります神社は、もとはちょうど沖家室大橋のたもとにありました。今は祠がある場所です。橋がかかる前まではまだ廃社がありました。ずいぶんと立派なものだったと記憶があります。架橋工事のときに解体されました。
現在の場所に最初に神社が建立されたのは明治5年。由来をみてみますと当神社は往古より漁業を専らとし、商業を旨とせる小島なればその繁栄を祈らん為、往昔大和国高市郡宇奈提社より御勧請の由申し伝う。
創立年月不詳、最初本島字洲崎に鎮座あるを明治5年現今の地に移転す。
明治6年、下田八幡宮末社に列格す。
明治36年専任神職を設置し独立神社となる。神主は山田勝稲氏
現在の神社が建立されたのは大正10ころ。大正7年、当時の宮司と宮総代が寄付集めに朝鮮や満州に出かけてひと月余りで2,400円集めたといいます。さらに翌年の大正8年には台湾にでかけて20日ほどで1,800円。このほかにもハワイやアメリカからも寄付が寄せられたと言います。宮本常一先生が東和町誌に書いていますので参照してください。
現在の金に換算しますと、米価換算表によれば、大正10年の米価は、1kg35銭50厘。現在の米価を1表(60kg)16,000円とすると、1kg約267円。そこで、大正10年の35銭50厘=現在の約267円ですから、大正10年の一円はその約2.9倍。したがって、大正10年の1円=約267円×約2.9=現在の約7,743円となります。
朝鮮や満州、台湾などから集まった寄付金だけでも4,200円。これを7,743円=1円で換算すると32,520,600円。これに本国とハワイやアメリカも含めると短期間に相当の金額が集まったことになります。多額の寄付者は神社境内を囲む玉垣に名前が刻まれています。
蛭子神社 蛭子神社  すでに亡くなられましたが、釣屋をされていた大武さん(大武商店・大谷武雄さん)の若い頃の話では、この神社を建てるときに、大きな木を吊るした縄を大勢で引いて、土地を固めるための地突きをして地固めをしたそうです。沖家室の人は、このお宮を八幡様とお呼びしています。山田宮司のお話では蛭子神社は下田八幡宮の末社であったから自然そのように呼び慣らわしたのではということです。
では、蛭子神とはどういう神様なのかというと、古事記では国生みの際イザナギとイザナミが最初に産んだ子。しかし、蛭のように弱い子であったため海に流した。その流れついたとこで神としてまつられたということです。今で考えれば、産まれた子を海にながすなんてとんでもないと思われそうだが、ちゃんと黄泉の国へ送るための葦の舟に載せたと言われ、「また生まれ変わっておいで」という意味なのだそうです。
沖家室の蛭子神社の由来をみると「大和国高市郡宇奈提社より御勧請」とあります。現在の奈良県大和高田市で宇奈提(うなて)は現在の雲梯(うなて)町が同じ呼び方ですが、雲梯(うなて)町は橿原市だから関係あるのかな?ないのかな? いずれにしても、やまとのくに たかいちぐん うなて のお社から分霊されたということです。
     

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