okikamuro island fan club, 沖家室島ファンクラブ|Kamuro party かむろ会

ルーツ研究

松本 昭司 

松本 昭司

「鯛の里」オーナー

四境の役

松本昭司さんから本銅さんへの応答メッセージ

蛭子神社の秋祭り

沖家室島洲崎港の歴史

沖家室島はルーツ

沖家室島洲崎港の歴史

                                              松本昭司    2014年9月20日投稿

先日、海藻研究所の新井章吾さんから、「安政大地震の大津波のときでも古い港だけは崩壊しなかったと聞いたが、沖家室はどうだったんですか?」と問われました。 沖家室で波戸が崩れたという話しは聞いてはいないが、はて? 古波戸が安政地震の前だったか後だったか。 そこでちょっと調べてみました。
「防長風土注進案」。 これは毛利藩防長二州全域におよぶ、各村落の沿革、地理、産業、経済、社会、習俗等の実態を細大もらさず綿密に調査した記録。 藩政改革に起用された村田清風らによって天保11年に管下の各市町村島浦から「地理産業仕出」の名目で、一定の綱目を示して実態調査の上申を命じ、これをまとめたものを「風土注進案」と名付けました。
山口県の古い記録としてはもっとも信頼性の高いものです。多くの学術書がこの風土注進案を出典元としているのはその信頼性の高さからです。
その注進案から沖家室の大波戸の記述をみると下記のようにあります。 「一波戸壱ヶ所須崎刈山ヨリ地続曲形寅ノ方エ出張二十五間、寅ノ方ヨリ子ノ方エ曲三十五間総長サ六十間根梁拾間高サ四間、何風吹候イテモ煩少モ無御座候得共、迫シテ海浅ユヘ百石ヨリ四五百石迄之船七八(そう)小漁船百(そう)位ハ繋泊相成可申、諸品交易之便利宜場所ニ自道商船数(そう)出入仕候、文化十四丑の年(1817)願出御免相成候上、須崎村地下中自力ヲ以築立仕候事」 ーーーーーーーーーーーー 上記の文の終わりのところ 「文化十四丑の年願出御免相成候上、須崎村地下中自力ヲ以築立仕候事」 (ぶんか十四うしの年(1817年)願いでて御免あいなり候の上 すさき村ぢげちゅう 自らをもってちくりゅうし候のこと) ざっくり言えば、1817年に波戸を造りたいと藩に願い出て許しが出た。須崎村(沖家室大橋のある地区)の村民総出で自ら築きあげた。
すごいですね。藩の力を借りずに自前で築いたという当時の財政豊かさと心意気。
安政南海地震は1854年に起きていて、その37年前にこの波戸が出来ていますから津波を被っているはずです。この注進案の記録は天保12年(1841)だから地震の前の記録ですが、以降 沖家室にはこの大波戸が崩れたと言う話しはありません。
津波の直撃を受けなかったのは、家村が北に向いていたからかもしれませんね。もし南に向いていたとしたら、甚大な被害をうけていたかもしれません。
1991年に襲った巨大台風19号は、沖家室の対岸の佐連地区の波戸が決壊、さらに伊崎地区の波戸もほぼ全壊。外入は津波規模の波が押し寄せて海岸付近の家はことごとく破壊されました。 災害救助法が適用されました。すべて村が南に向いています。安政地震の津波は外入で海抜18メートルまで押し寄せた記録が残され、その碑が今もあります。
【画像】は古い写真にみる沖家室の大波戸です。昭和の始めころの写真と思われます。大きな帆船は遠洋漁業舟です。左右と船尾で7丁櫓くらいかな? 手前には北前千石舟が係留されています。2006年に水産庁から「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」に選定されましたが、この大波戸の存在とこの波戸に囲まれた島の風景が選定に大きく寄与したと言われています。 沖家室島洲崎港       


かむろ会概要  お問い合わせ