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ルーツ研究

屋代源三 

屋代 源三

周防大島郷土史研究家

沖家室島はルーツ

「屋代島沖家室再開基家 石崎氏」

 屋代源三    2023年7月20日投稿

屋代島との伊予との関係を勉強していますので徐々にUPしていこうと思っています。


幕末までに大島郡=(現周防大島町)平郡(現柳井市)上関(現上関町)遠崎村、鳴門村、神代村(旧大畠、現柳井市)佐合島等(現平生町)が旧大島郡の版図でした。毛利藩は行政区として「大島宰判」と「上関宰判」に分けましたので現在の人も大島郡の全体を把握していない人も多いですね。

遠崎村は最初は吉川藩(岩国藩)でしたが屋代島への玄関口として替地交換で大島郡となりました。よって庄屋は三蒲村や小松村の庄屋が兼任していました。国防僧、月性は当時は大島郡人ですが、現在は柳井の人のように喧伝されているのが残念ですね。


上関町は重要な港であり、江戸期は参勤交代や朝鮮通信使の寄港地として有名ですが、護衛部隊長は屋代や和田の御船手組村上兄弟家でした。よって、朝鮮通信使の往復路の防衛は村上図書家を総大将として大島郡の舟子(カコ)約3000名が動員されましたので、久賀や安下庄の本浦漁民は勿論のこと端浦の沖家室の漁民も総動員で、飯だけ食わせてくれる無給なので、本来の漁業経営ができず、朝鮮通信使の来日は大迷惑と記録されます。沖家室もこの時だけはひもじい思いをしたでしょう。

さて、沖家室再開基の石崎氏の話にしましょう。沖家室は戦国末期は海賊浦でしたが、豊臣秀吉の海賊禁止令により大内海賊の一味も退散し無人島となります。そこへ伊予を追われた人たちが再入島します。その代表者が石崎氏とされますので、石崎氏を追ってみます。関係者からの投稿をお待ちします。



[屋代島沖家室再開基家 石崎氏]


沖家室島再開基の石崎氏は、ある本は伊予河野家一門とし、又ある本は、村上海賊一門とします。

河野家や村上家と婚姻関係を結んでいたので、それぞれが、同門とします。

参考系図ながら、中村石崎系図なるものがあります。これによると通字は「日」てる、です。

末期の表現は「油宇石崎系図」に引き継がれますが、その後の「友澤惣右衛門貞昭家譜録」から通字が引き継がれていません。謎です。

前置きはさておき、古い系図順に並べてみます。


【参考系図】
「中村流石崎系図」
初代)中村弾正忠通日(道日)
二代目)石崎日政
三代目)石崎日文
四代目)石崎日方
「北畠顕家流石崎系図」
五代目)石崎日久
中村孫四郎日久【伊予温故録】
「石崎総系譜」
六代目)石崎四郎尉日宗
明澤城主・石崎四郎三郎日宗【伊予温故禄】
1606年(慶長11)に沖家室島に移住【伊予温故禄】
  「油宇石崎系図」
  河野殿エ随身日宗家督ス
  長男)石崎四郎左衛門尉日為 →興居島石崎家を継ぐ
  能嶋殿エ随身後屋代嶋居住
七代目)石崎二郎左衛門尉日行  (~1474・7/8)葬油宇浦浄西寺
文禄3年(1594年)カ   法名・徳孝院浄光日行居士
注)油宇浦浄西寺は明治4年からの名称(元浄土寺)西連寺末
この事により「石崎総系図」は明治四年以降に手が加えられたことになります。
初代勘左衛門顕宗の兄弟・直宗の系統)・・・家紋丸に一文字
石崎直宗(油宇)→【油宇石崎家祖】
八代目)石崎顕宗(沖家室)
沖家室石﨑家・・・家紋丸に方喰
浄土宗久賀村阿弥陀寺檀那
「友澤惣右衛門貞昭家譜録」
九代目)石崎宗政
石崎庄太郎・勘左衛門・惟昭
注)萩藩閥閲録は勝太郎・勘左衛門を二代目とする
沖家室石﨑家分家伊勢屋流峠下系・丸に剣菱
初代勘左衛門顕宗の次男・八郎左衛門の系統
弟)石崎八郎左衛門
改石崎称友澤  →以後、「友澤家系図」へ移る。
十代目)
友澤初代)
石崎(友澤)徳昭・惣兵衛・惣右衛門
(1623~元禄8・1695)12/2 72歳
正保年中始(1644~48)而奉仕秀就公
★(大幸院)慶誉浄安居士・1695・「過去帳」
室・寛文11年(1678)没・「過去帳」
元和元年(1681年)浮島開発「浮島開発記」
正保二年(1645)毛利秀就より三人扶持支給され
友澤惣右衛門と改称し屋室船究役仰付
貞享二年(1685)水無瀬三町余拝領、ついで
宇賀島、安下庄の三ツ松、明戸池(夫婦池)拝領開作し
検地石盛りの結果三十九石二斗四升となり、元禄5年
(1692)に三人扶持に加給。
沖家室庄屋石﨑家・・・丸に方喰
十代目)弟)石崎三郎右衛門政家(沖家室)
三代石崎三郎右衛門【庄屋一覧記録】

沖家室石﨑家分家下松屋流寺之下系
弟)石崎五郎左衛門
二代宗政次男・五郎左衛門の系統)・・・家紋丸に二つ引両
沖家室石﨑家分家下松屋流寺之下系
石崎五郎左衛門
二代宗政次男・五郎左衛門の系統)・・・家紋丸に二つ引両
十一代目)石崎勘左衛門政道
【萩藩閥閲録4】提出者

沖家室石﨑家分家分銅屋流
弟)石崎善兵衛
三代勘左衛門政家の四男・善兵衛の系統)・・・家紋丸に剣方喰
十二代目)石崎勘左衛門政清
元文2年(1737)12月の庄屋【地下上申】
給小都合庄屋 岡野半左衛門
畔頭 瀬兵衛
友澤四郎左衛門庄屋 権兵衛
(庄屋)年限不明~元文4年迄庄屋
十三代目)石崎勘左衛門
六代目勘左衛門・泊清寺七世幡龍と石嵜系譜編纂
【宝暦13年(1763年)】
庄屋)延享4・7月~安永4・9/17迄、
十四代目)石崎勝之助
庄屋)安永4・9/18~同8・12/18迄
(庄屋)天明11・12/31~寛政2・1月迄、
十五代目)石崎平右衛門(後・勘左衛門)
(庄屋)寛政2・1月~文政2・閏4/10迄
(庄屋)文化8年12/2倅富之助代役被仰渡)
十六代目)石崎(富)留之助
勘左衛門
(庄屋)文政2・閏4/11~同5・12/6迄
(庄屋)文政5・12/7~同7・10/晦日迄
十七代目)石崎勘左衛門
勘左衛門
(庄)文政5・12/7~同7・10/晦日
注)十六代と十七代は同一人物か?
以下略

屋代源三 (呑舟 今元)



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