okikamuro island fan club, 沖家室島ファンクラブ|Kamuro party かむろ会

古谷 嘉民

古谷 嘉民

東京かむろ会(千葉市)


エッセー

沖家室はルーツ

古谷 嘉民   2020/07/21 投稿


八木会長様


 エッセーいつもありがとうございます、興味深く拝読させてもらっています。


 私事ですが、先日(6月19日)家室に帰り墓じまいをしてきました、新山住職には閉眼供養を懇ろに弔っていただきました。


 私は、沖家室を離れて64年になります、母が2011年に亡くなるまでは帰郷していましたが最近帰っていませんでした、車の運転も危ないから止めなさいと止められ、帰郷することもままなりません。家室には親戚、縁者も誰も居なくなりました、お墓参りも出来ず、州鼻に、しもた屋がありましたが最近毎年のように大きな災害が発生し色んな所を襲っています、もし倒壊でもしてご近所に迷惑を掛けても、連絡先も分からないのでは申し訳がないと思い解体致しました。


 私の、Rootsは無くなっても沖家室を忘れることはできません、戦後の食糧難の時代に朝鮮から親子5人引き揚げてきて父母の親戚はじめ部落の多くの方々のお陰で中学校を卒業し、父の仕事の都合と私たち子供の教育の為に柳井に移り住みました、父は定年退職後はまた家室に帰り又島の皆さんに大変良くしていただきました。好きな魚釣りを満喫していましたが昭和56年に海難事故に会い行方不明になりました、島民はじめ、近隣の漁師さん、などが懸命の捜索をしていただきましたが見つかりませんでした。1週間目ぐらいだったと思いますが、「皆が仕事を休んで捜索してくれているでこれ以上続けてもらうのは申し訳ないと」漁業組合長にお願いをして止めてもらいました。


 私は、昭和34年にヤナギゴウリ一つと、布団袋を当時の国鉄のチッキで送り東京の建設会社に就職しました、就職先は東は広島、大阪ぐらいまででしたが、東京まで行く人はほとんどありませんでした、盆正月に帰郷するにも新幹線もまだなく、もう無くなりましたがブルートレインの「西海号」が東京を夕方出発して早朝柳井に到着するので、最高でしたが切符が買えませんでした。


 東京の建設会社に就職して以来、42年間転勤もなく東京支店で主に都内の建物を数多く手がけました。田中角栄の列島改造論後、東京オリンピック、大阪万博、と建設業花形の良き時代に携わることが出来ました。


 平成7年7月に竣工した「東京国際展示場」竣工後の名前は「東京ビックサイト」は当時の鈴木都知事がリフトアップ工法のスイッチを押すセレモニーに出席されご案内をいたしました、リフトアップ工法はまだ珍しく逆三角形の本体部分約6000トンを油圧ジャッキ280個で引っ張り上げる工法です。建設マンとして最高の時代ではなかったかと思っています。


 このコロナ騒ぎが収まって自由な行動が何時頃できる様になるか先がみえませんがその時が来ましたら家室に帰ってみたいと思っています。


 新山住職には大変お世話になりました。ありがとうございました.


古谷嘉臣


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