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                                              松本昭司    2016年6月26日投稿

面白いです。四境の役(第二次長州征伐)のビデオがyoutubeに公開されました。大島口の戦いは島民の決起(第二奇兵隊)が勝利に大きく寄与しました。あまり表には出てきませんが、現場の戦いを有利に進めたのは海賊村上や河野一族やそのつながりのある海の猛者がいたからでしょう。日本最強の海賊衆です。周防大島の歴史は村上海賊とは切り離せません。


陶と毛利の戦い(厳島の合戦)では村上海賊が戦勝の功で周防大島を拝領します。久賀のトオゴン山(東郷山)の山頂に村上通康(来島村上)の城が築かれました。来島村上のお蔭で久賀はブチ壊され、島民はたいへんな目にあったようです。


朝鮮通信使一行を下関から大阪まで海上の護衛を担当したのも村上海賊衆です。周防大島の漁民が5,000人投入されたと言います。対馬藩宗氏を先導20,000人の大船団の内、5,000人の舵子ですからすごいパワーです。ウチのじい様も大阪の天保山まで漕ぎ手として出たと伝わっています。


関ヶ原で毛利藩は石田三成の西軍についたため家康に減封させられますが、毛利藩の海の警護(御舟手組)のトップ(組頭)を務めたのが周防大島の和田村上(景親/かげちか)です。村上海賊衆の大将武吉(たけよし)の二男です。長男元吉は伊予の松前攻めで落命します。元吉の幼い息子元武を景親が引き取り、組頭に育てます。このときに沖家室島を開発した伊予河野海賊の家臣の石崎(友澤)氏も御舟手組の士分に取り立てられ、毛利藩の東の玄関口として沖家室の海関を取り仕切ります。


少しそれますが、村上一族は関ヶ原で分裂します。周防大島を支配していた来島は家康につきます。のちに久留島と名を改めて九州の豊後国森藩を拝領します。そして不幸が襲います。瀬戸内を通行中、この沖家室島の現在は橋が架かっている下の灯台が立っている岩礁に乗り上げて約10名が亡くなります。乗っていた久留島主膳通方も溺死します。周防大島嵩山(だけさん)の中腹にある名刹普門寺の海賊の墓がこれです。かつて周防大島を支配した来島氏が周防大島の地で亡くなるとはものの哀れです。


ちなみに個人的ですが、村上水軍ではなくて村上海賊を使っています。「水軍」と言われるようになったのはごく最近と言われています。海賊=盗賊というイメージを払しょくしたい思惑があったようです。でも海賊は海賊です。山賊は山賊で「山軍」ではおかしいでしょう。



周防大島町
「四境の役 大島口の戦い」を制作!
150年前の慶応2年(1866年)周防大島を舞台に長州軍と幕府軍の戦いが行なわれました。「四境の役」と呼ばれるこの戦いで、最初に幕府軍を撃退した「大島口」の戦いは、明治維新のさきがけとなる重要な戦いでした。 「大島口」の戦いにおける長州軍の勝利の陰には、周防大島の島民の大きな支援がありました。
平成28年は、この戦いから150年目の節目の年です。この機会に強大な幕府軍から周防大島を守った先人達の功績を振り返ってみましょう。

         

【制作】四境の役150周年記念事業実行委員会
(社会教育課)

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