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ルーツ研究

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勝山 真人

京都市


沖家室島はルーツ

沖家室友澤家につきまして(第四弾)

沖家室友澤家の九代目・二宮九八

勝山 真人 2017年7月26日 投稿

 庄屋を務めた八代・彦七は明治6年に亡くなりました。沖家室友澤家の九代目当主となったのは、その長男・九八でした。しかし九八は明治11年に二宮余次という人物と養子縁組し、長男・忠作、後妻・タカとともに二宮姓を名乗っています。これがどういう意味を持つのか、私には永らく疑問でした。

 

 東和町誌の明治10年頃についての記述では、沖家室で魚の仲買を行っていたのは最も力のある家々とあり、その中に二宮と友澤も含まれていました。また「東和町誌−各論編−第二巻 集落と住居」(昭和61年)の「第五章 沖家室」には、明治前期の洲崎地区の地図が掲載されており、友澤家屋敷に接して二宮家屋敷があったことがわかります。さらに友澤も二宮もともに石﨑系との注釈があります。また「友沢氏は後に二宮氏を名乗るようになるが、洲崎中の御番所の近くに八〇〇坪もあろうかという広大な屋敷を構えていたようである。ここは二宮屋敷、または友沢屋敷とよばれており、屋敷の背後には友沢家の墓がまつられている」という記述があります。さらに「明治のいつの頃かはわからないが、洲崎中の御番所のあった屋敷や二宮屋敷が手放され、そこが細かく分割されて小さな家が建ち並んでいく。とくに二宮屋敷は三〇ほどに分割されて、」という記述もありました。

 

 九八がなぜ二宮余次と養子縁組しなければならなかったのか、また余次がどういう家系だったのかは、入手可能な資料だけではわかりませんでした。しかし泊清寺の新山玄雄住職から有力な情報を得ました。それは、九八が養子入りした二宮家は毛利の殿様の御落胤の家系との言い伝えがあり、それで戒名も唯一院殿号である、というものでした。二宮家の家名存続のため、友澤家の九八親子が養子入りしたのではないか、とのことでした。

 

 毛利の殿様の御落胤で二宮姓といいますと、毛利元就の六男とされる二宮就辰(なりとき)がいます。毛利家譜録によりますと、この就辰の別名は余治というそうですが、「二宮与次就辰文書」というものが残されており、「与次」とも名乗っていたようです。また子孫に当たる二宮太郎右衛門辰相も別名が「與次」で、同じ読みの「二宮余次」がその子孫であった可能性は高いです。二宮就辰の子孫は美祢郡嘉万村に891石を領する萩藩大組の武家として存続し、萩城下の屋敷跡の長屋門は観光地となっています。そんな家系がなぜ沖家室の縁も所縁もないと考えられる友澤家の当主・九八を養子に迎えたのか、その理由は知る由もありませんが、やはり明治維新後の混乱に伴う出来事だったのではないでしょうか。


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